観光客
20 COACH & STEAM YACHT Tours through Lakeland. No.2 Inner Circular Tour, embaracing Furness Abbey, Coniston Lake (Gondola), and Crake Valley. (Norman, K.J., The Furness Railway. p.105. Silver Link Publishing, 1994)
リゾート
英国中部東海岸の町、ブラックプール(Blackpool)。19世紀初めには人口500人にも満たなかったこの町は、プレストン(Preston)から近くの港町フリートウッド(Fleetwood)までの鉄道開通とその後1846年のブラックプールまでの支線開通によって、海浜リゾートとして一気に発展していきました。1880年代には夏にここを訪れた&color(black)観光客の数は120万人ほど、1890年代には200万人、今世紀になると300万人を越えたのだそうです。
ツアーリズムの勃興とともに、1885年、この町には英国で初の街灯が灯り、さらに街は無数の電飾(有名なIllumination)で飾られました。同年、英国で初めて路面電車が開通し、さらに1894年にはエッフェル塔を真似た高さ200mのタワーが建てられました。そしてもちろん海岸には先輩のバース(Bathe)、ブライトン(Brighton)をまねて海に突き出したピア(桟橋、chain-pier)が作られました。
ここを訪れた観光客のほとんどは近くのイングランド中部・北部工業地帯「Black Country」の住人ばかり、中産階級の下層ないし労働者階級が圧倒的に多かったとのこと。何ヶ月もの長期滞在型休暇をエンジョイするほどの余裕に恵まれなかった彼らは、せいぜい一泊か二泊の短い休暇をとりブラックプールにやってきて、海岸沿いのプロムナードでそぞろ歩きを楽しみ、ピアに作られた飲食娯楽施設で遊び、歓楽的な休暇を楽しんだのでした。
そして、湖水地方はここブラックプールからほんの目と鼻の先にありました。19世紀後半に鉄道がこの地へ乗り入れるとともに、「Black Country」からの観光客が湖水地方へ押し寄せたのです。
休暇
プレストン(Preston)在住のキャロライン(Caroline)とロジャ(Roger)の二人が、今度の休暇の相談を始めたのは1919年5月のことでした。
-キャロライン、イースターには休暇が取れなかったけれど、来月休みが取れそうなんだ。
-あら、素敵、またブラックプールへ行きましょう。あそこ好きよ、ピアでダンスするの。夜の街も綺麗だし。
-それもいいけれど、もう少し足をのばさないかい? フリートウッドからバロウまでモアコム湾を行く船が出ているんだけど、湖水地方まで行くのはどう?
-モアコム湾?! あそこ死人が出たことがあるのよ。
-それは昔の話さ、引き潮の間に浅瀬を馬車で行ったからな。でも今はりっぱな蒸気船さ。
-いや! 船は酔うから。知ってるでしょ、ロジャ!
-じゃあ、駅でポスターを見たんだけれど、汽車で行くのは?一週間有効の家族向け周遊切符が割引で買えるんだ。コニストンにはラスキンの家があるって。
-ラスキン? その人知ってるわ、モリス商会と関係のある人でしょ。隣の子がメイドに行ってるお屋敷の壁紙は全部モリスのものだって。
-ゴンドラもあるってさ。
-ゴンドラ! まぁ、素敵。ベニスに行くのは無理だけど、二人でゴンドラに乗りましょう、ロジャ。
でも B&B に泊まるの? シーツとカトラリーは持参した方がいいって聞いたわ、湖水地方の田舎では。
-それはヴィクトリア女王の頃の話、今はそんなことないさ。ホテルに泊まろう、高級ホテルは無理だけどね。
Furness Railway による20種類もの周遊ルートのなかから二人が選んだのは、「湖水巡りツアー No.2」でした。
時は初夏6月、この12年間(1907-1918)のデータによれば、日照時間が一番長いのは5月、そして降雨量が一番少ないのは6月でした。8月を過ぎると6月の倍以上の雨が降り、秋10月には日照時間は半分以下になってしまうのでした。
湖水観光
Furness Railway、Lakeside支線は1869年6月の開通で、主線にある Ulverston から Leven川沿いの谷をウィンダミア湖南端まで行く、たいへん景色の良い路線でした。終点の一つ前 Newby Bridge には有名な Swan Hotel がありましたし、支線に入って一つ目の駅 Greenodd は、そこから馬車(Stage Coach)によって湖水地方内部へ入っていくツアーの出発地でした。人気の観光路線らしく、平日には上り下り25本もの列車がありました。
Greenodd を出ていくコーチの御者は、赤いコートに白い帽子(トップハット)を被っていて、観光客にとっては良く目立つおなじみの光景だったのです。
-この汽車は Lakeside まで直通だから、乗り換えないですむのがありがたいな。そうじゃないと、Carnforth で Furness Railway、それから Ulverston で Lakeside支線に乗り換えなきゃならないし、ずいぶん時間が無駄になるんだ。
ほら、海が見える。
-ねぇロジャ、あの船は漁船かしら?
-このあたりは浅瀬が拡がっているから、エビ漁とカキ漁が盛んなんだ。こっちへ向かっている少し大きな帆船は、たぶん観光客を運んでいるんじゃないかな。鉄橋を渡ったところが Grange-Over-Sands で海岸のリゾートだから。
-私たち、山へ行くのに、海岸を通るなんてちょっと変ね。
-うん、ウィンダミアやコニストン、ランカシャーの湖へ行くのは南周りで行く方がずっと楽なんだね。
-また、橋だわ、長い鉄橋ね。ここが Leven川の河口ね。
まぁ、この駅、屋根もなんにもないわ。
Furness Raiway, Lake Side Branch の Greenodd駅舎
ここからコニストン湖までは Crake渓谷沿いを 5マイル強の登りとなります。一カ所だけ道の悪いところがありますが、鉄道(コニストン支線)が通るルートに比べればはるかになだらかなで、そのことはキャロラインとロジャにとっては幸いなことでした。というのも、馬車が急な登り坂にさしかかると(アンブルサイド-コニストン間がそうでしたが)お客は馬車から降ろされて、道を歩いたものだったのです。
Greenodd駅発以外にも、ウィンダミア駅前の Riggs Hotel から出発する馬車ツアーがたくさんあったわけですが、車の普及に連れて、コーチ(Stage Coach)による周遊観光は1920年頃には下り坂になっていきました。さて、キャロラインとロジャはというと・・・
-キャロライン、急いで! コーチは一日二本しかないんだ。
-うるさく言わないで、男とは違うのよ。馬車にトイレはないし。ハロー、良いお天気ね。
-すごく揺れるわ。それにこの馬車に12人も乗ってるのよ、私、数えたの、12人よ。
-そう言わないで。ほら、見てごらんよ、山がすばらしいじゃないか。あれが The Old Man of Coniston だな、きっと。
-山なんか、どれも同じよ。いったいいつまで続くのかしら? もう背骨が折れそうよ。あら、やっと終点? ここがコニストン湖の湖尻ね。ロジャ、二人でゴンドラに乗りましょうね。あなたを膝に乗せて歌を唄ってあげるわ。ロジャ!、これがあなたの言ったゴンドラなの!!
1859年、コニストン支線全線開通の年の秋、リヴァプールで建造された蒸気船「ゴンドラ」は鉄道で湖へ運ばれてきました。その定期運行が始まったのは翌1860年6月のことで、1871年からは船長 Felix Hamil が1921年の引退まで舵を取ったのです。
「ベネチアのゴンドラと英国の蒸気船との完璧なる融合であり、滑るようなゴンドラの動きと、蒸気船のスピードを兼ね備えた、優雅にして快適なヨット」であったこのゴンドラは、200名を越える乗客を乗せることができ、イースター休暇から9月の終わりまで、Water Head Hotel の桟橋と湖尻 Lake Bank の間を一日8往復していました。片道の所要時間は35分でした。
ゴンドラに乗って
-あの船長、ヴィクトリア時代の生き残りね。この桟橋は蒸気船のためにつくったのかしら?
-いや、ここは昔、銅やスレートを運ぶ船が着いたところなのさ。
-なんで知ってるの?
-Blackのガイドブック(Home, Gordon (ed.). (1919). Black's guide to the English Lakes. A&C Black)読んだからな。
-まぁ、お勉強家だこと。あれ島よね、違う? やっぱり島だわ。ねぇ、ロジャ、あそこに船を着けてもらえないかしら。あら、ちっちゃな船が出てきたわ。
-あれはディンギーだよ。セイリング・ディンギー。
-あの船、ニス塗りで綺麗だわ。男の子が二人乗ってる。ハロー、ハロー!こっちよー!まぁ、振り返りもしないわ、愛想のない子どもね。土地の子かしら?
-いや、農家の子どもはディンギーで遊んだりしないものさ。多分、休暇に来ている子どもだろう。ピクニックに絶好の場所じゃないか、あの島は。あの下生えに見えてるのはブルーベルじゃないかな。
-あれがラスキンが住んでいた家さ、もっとも冬の間はイタリアに行ってたらしいけどね。
-ゴンドラに乗ったのね、きっと。あそこへ寄るのね?
ブラントウッドから見た The Oldman of Coniston
-山が素敵だな、まったく湖水地方に来たという気がするよ。キャロライン、明日はあの山に登らないか?
-ごめんだわ。ねぇ、右のあれはなぁに?小屋みたいなもの、水の上に浮いてるみたい。
-ボートハウスさ、桟橋も見えるだろ。あれはプライベットだな。あの上に見える屋敷の持ち物だろう、綺麗な青い壁の屋敷がある。ほら、帽子をかぶった紳士が桟橋に出てきた。
-ロジャ、ロジャ!またあの船よ、さっきの男の子が乗ってる。あそこの桟橋に着けるのかしら。あのお屋敷の子なのね。私の弟はオモチャの船を一つ持っていて、そばのスクエアの池で浮かべてたわ。学校を出て工場へ働きにいった時に捨てちゃったけど。きっと、あの子たちは寄宿学校へ行ってるわね。大人になっても、煤や油にまみれて働くことなんてないのよ。あの男の子たちが乗ってるような船を弟にも買ってあげたいな。
-でも、キャロライン、あれ女の子だよ。
コニストンからアンブルサイド(Ambleside)へは1日3便、ウィンダミアへは毎昼1便のコーチがありました。村の中に銀行は2行、教会の礼拝は日曜午前10時半と午後6時でした。当時、村には5件のホテルがあり、一番上のクラスが Water Head Hotel で、他に Crown, Black Bull, Fairfield Temperance, Sun がありましたし、B&Bも何軒かあったとのこと。
ゴンドラが着いたのは Water Head桟橋ですが、キャロラインとロジャが泊まることにしているのは James G. Marshall (M.P.、リーズ選出議員)が所有するここWater Head Hotelではありませんでした。
いつも雨降り
-ホテルはここなの?
-いや、ここは紳士方のためのホテルさ。ここに泊まるんなら、キャロライン、お召換えをしなくちゃな。村の真中にある Crown Hotelの方さ。
-キャロライン、上の小湖(Tarn)まで登ってみようと思うけど、一緒にくるかい?
-いいえ、結構。私は少しお昼寝をするわ。あら、さっきまで山の頂が見えていたのに、いつの間にか雲がかかっているわ。お茶をもう一杯頂ける?雨になるのかしら?
-(ウェイトレス)そう思うわ。でも、いつものことよ!
そして、翌日は生憎の曇り空。キャロラインとロジャの二人は湖水地方で一番と言われた景勝地 High Cross へ向けて、ホークスヘッド(Hawkshead)へ続く山道を登っていきました。
High Crossからの眺め, old postcard 1938/c)
-High Cross はね、コニストン湖を眺めるならここと昔から言われてきたんだ。ホークスヘッドからコニストンへ山を越えていくだろ、山道を登りきると視界が開けて、突然目の前に湖が見えてくるんだよ。もっとも僕たちは逆の方向から登っているんだけれどね。ほら、振り返ってごらん、向こうにオールドマン、それに湖が綺麗じゃないか。
-はいはい。なんて登りかしら、それにこのひどい落とし物!せっかくのブーツが台無しよ。あら、ここがそうなの?あの宿屋は「一番眺めの良い場所」には相応しくないわね。それにどうしちゃったの、まるで石切場じゃない。あれ、蒸気機関の石砕機でしょ。
-うーん、ラスキンの日々も今は昔と言うことだな。
-なんのこと?あそこでお仲間と一緒に一杯やったら?それとも向こうは見ないで、湖と山だけ見ていましょうか?耳もふさがないと駄目ね。あら、蒸気船が2隻も走っているわ。あんなに大きな船が必要なほどたくさん観光客が来るのね、山と湖しかないのに。
上り列車の車窓から
2時25分コニストン発の汽車に間に合うように二人は山を下りていきました。二両の機関車にはさまれた列車が駅を出ていくと、左手にはコニストン湖のすばらしい眺めがひろがり、雲間から射す太陽に照らされて、はるか南の湖面はキラキラ輝いていました。
Water Head桟橋の対岸、小さな桟橋では幼い女の子を連れたお母さんと一人の紳士が湖に向かってなにやら話をしていましたが、列車からは遠すぎて見えませんでしたし、その紳士がロシアでの悲惨な経験と将来への不安をその胸に秘めていることなど、もちろんキャロラインとロジャの二人には知る由もないことでした。
4時前に Furness Abbey に着いた二人は、Furness Abbey Hotel でちょっと贅沢なお茶をとり、5時に Carnforth で慌ただしく LNWR に乗り換え、自分たちの町「Black Country」へ帰っていきました。
この時代、人々の観光旅行熱はすさまじいものだったようです。何隻もの蒸気船に鈴なりの観光客というのは、今ではハイ・シーズンのウィンダミアでも見られないかも知れません。ワーズワースの危惧はまさにその通りだったのでしょうし、そこで長い休暇を過ごしていたごく少数の幸運な人々にとってよそ者の観光客は「土人」や「アザラシ」以外の何者でもなかったのかも知れません。
しかし、どれほど足繁くコニストンを訪れたとしても、またそこを第二の故郷としその土地をどれほど愛していたとしても、ランサムや子ども達は結局、「訪問者」だったのではないでしょうか。