コニストンの休暇
ランサムや子供たちはどうやってコニストンへやって来て、どんな休暇を過ごしていたのか
汽車と馬車の旅
自伝の Book One、 II Lake Country Holidays には、休暇に旅立つ日の様子が子ども時代の思い出として述べられていますが、ランサムがリーズ(Leeds)からの通過駅を順に述べてくれているお陰で、コニストンまでおよそ103マイル(165km)の行程をたどることができます。(Ransome, Arthur, (1976) The Autobiography of Arthur Ransome. p.25. Cape.)
Leeds の街を出て Midland Railway をほぼ西に進んだ列車は Hellifield、 Arkholme の駅を経て Carnforth に到着します。この駅は Midland Railway、そしてユーストン-カーライル間を結ぶ主要幹線 London and North Western Railway、さらに Furness Railway との連絡駅(Junction)です。ここでランサム家はモアコム湾(Morecambe Bay)の縁をぐるっと廻り西海岸を行く Furness Railway の列車に乗り換えます。途中 Kendal を流れる Kent川と Windermere湖から流れ出た Leven川の二つの河口をまたぐ鉄橋を渡って着いたそこは Greenodd駅。
この駅は Leven川ともうひとつ、コニストン湖からの Crake川が注ぐ河口近くの海岸に作られていて、下りホーム待合室のすぐ脇は海です。ランサム家は上りホームにある駅舎を出たところで待っていた馬車(荷車)、Swainson農場からの迎えの馬車に乗り込みました。(この駅は「Swallows and Amazons」のビデオの中で、ウォーカー家が汽車で到着する駅として登場しています)
かつてのGreenodd駅、20世紀初頭と思われる(The Sankey Collection 5317The Furness Railway より部分)
ビデオ『Swallows and Amazons』より
ビデオでは物語にはない場面、ウォーカー家が湖水地方へやってくる場面を導入部としています。フィルムのなかで家族は汽車に乗り湖水地方へやって来てある駅で車に乗り換えるのですが、その駅としてかつての Furness Raiway, Lake Side Branch の Greenodd駅が使われています。ここは少年のランサムが Leeds からやってきて馬車に乗り換え Nibthwaite の農場へ向かったまさにその駅です。この支線は1965年に閉鎖され、その後1973年に Haverthwaite-Lakeside間のみ再開されていますから、車上の場面はこの区間からのものでしょう。しかし Greenodd駅は1974年の道路拡張工事のために完全に撤去されてしまい、かつての面影を残すものは現在まったく残っていません。フィルム制作が間に合って良かったですね。
Furness Railway の Lake Side支線への乗換駅は Ulverston です。そこから Crake渓谷を登っていった方が接続時間を無駄にしないですんだのに、支線にある Greenodd駅を利用したということは、Leeds から Lake Side支線(Greenodd を経由してウィンダミア湖南端 Lake Side まで)へ行く直通列車に乗ったのでしょう。また「後年、父が”Saloon Carriage”を予約できたときは」乗り換えないで済んだとありますが、Leeds 方面から Lake Side支線へは直通便(乗換駅で他の鉄道会社の客車を増結していく)が一日数本ですがありましたので、ランサム家もこうした便を利用したのでしょう。
夏の少年
Crake渓谷を登っていくことおよそ9km、Allan Tarn(タコのラグーン)を目にするともうすぐコニストン湖の南端で、右に折れ、坂を上ると Swainson農場です。お茶のあと「もう行ってもいい?」と出ていったそこはパラダイスで、あの有名な「儀式」が続きます。
I used first of all to race down to the lake, to the old stone harbour to which, before the Furness Railway built its branch line to Coniston Village, boats used to bring their cargoe of copper-ore from the mines on the Old Man. I had a private rite to perform. Without letting the others know what I was doing, I had to dip my hand in the water, as a greeting to the beloved lake or as a proof to myself that I had indeed come home.(Ransome, Arthur, (1976) The Autobiography of Arthur Ransome. p.26. Cape.)
「故郷」であり「パラダイス」であったコニストンでの休暇が何歳のときに始まったのか、またそれが父親の死まで毎年続いたものなのかはっきりしません。そしてある夏の休暇の始まりと終わりの日がいつだったのかも述べられてはいません。ただひとつ、イースターから運行を始めた蒸気船ゴンドラがその年の運行を終える日、船長 Felix Hamill は Lake Bank の桟橋をこれが最後と離れるときに、ずっと汽笛を鳴らし続けていたとランサムは記しています。そして長く続く汽笛が聞こえてくるその日はいつも雨だったと。
1914年の時刻表によれば、8月31日をすぎるとゴンドラの運行回数は盛夏の半分、一日4往復に減り、それは9月いっぱいまで続いていました。もっとも四半世紀近い時間のズレがありますので、なんともいえないことですが。
ダイムラーに乗って
別の家族の1923年、1928年の休暇はこんな風でした。London & North Western Railway ノンストップ便の停車駅は Crewe、 Preston だけ。Lancaster の先 Carnforth で Furness Railway に乗り換えて Leven川河口を越えたところ Ulverston に到着。そこからはハイヤー、大きなダイムラーが待っています。車で Greenodd を通り Crake渓谷を登り、湖の上へ。屋根に破風飾りのついた大きな屋敷レインヘッド(Lanehead)、そのドアは背の高いイチイの木の間に半分隠れています。
家の奥の方でドアベルが鳴り、ずいぶん経ってからようやく足音が聞こえてくる。やっと掛け金がはずされ、入ったホールはとても暗くてバッグをどこへ置いたらよいものやら。祖父の書斎のドアが開き、油絵具の強い匂い。
大きな窓を通して温室が見通せ、その先には湖が見おろせる。
旅着のままで部屋から飛び出し、急な斜面をボートハウスまで降りていった私たちは、お茶に呼ばれて、クモの巣を肩にくっつけたまま渋々戻ってくる。(Altounyan, Taqui, (1990) Chimes from a Wooden Bell. p.108. Tauris.)
『ピール島日和』を過ごすのは1ポンド金貨を使うのと同じこと。朝靄は良いお天気の印。そんな日には決まって西風が吹いて、長いタックを一つか二つとれば、4マイル南にある島まで行けるのだ。
こうしたランサム家やアルトゥニアン家の休暇は、そして物語の子ども達がすごす休暇も、当時湖水地方へ押し寄せたブラック・カントリーからの観光客のそれとはずいぶん趣が違っていますね。
北へ向かう旅
ロンドンから湖水地方へ行くのに利用するのは London and North Western Railway(1923年以降London Midland and Scotish Railway に統合)。カーライルまでの本線にはランサム・ファンお馴染みの駅がならんでいます。
- ラグビー(Rugby)
- クルー(Crewe):11作目 Pict and the Martyrs で Dick は学校からこの駅へ直行し、 Dorothea の乗るユーストンからの列車を捕まえます。
- プレストン(Preston):英国随一のリゾート、ブラックプールへの乗換駅。現在湖水線はここまで走っていますから、ウィンダミアへ行くのにオクソンホルムではなくここで乗り換えたという方もいらっしゃるでしょう。
- ランカスター(Lancaster):かつてのランカシャー州最大の商工業都市であったこの町は、コニストンに住む人々が用事で町へ行こうとした時に向かった所だそうです。
- カーンフォース(Carnforth):Furness Railway への乗換駅
- オクソンホルム(Oxenholm):ケンダル、ウィンダミアへの乗換駅
- ペンリス(Penrith):湖水地方北部をケズウィック(Keswick)経由で西海岸へ横断する路線への乗換駅
- カーライル(Carlisle)
1903年以降ランサムもこの路線を通ってロンドンから湖水地方へやってきたはずです。勤めてからはじめての休暇に彼が(一時も無駄にすまいと)乗ったのは、ユーストン発の夜行列車でした。(Ransome, Arthur, (1976) The Autobiography of Arthur Ransome. p.80. Cape.)
Copper Mines Beck の出会い
1903年(19歳)、ヨークシャー・カレッジを中退しロンドンで職を得て自活を始めたランサムは、自分の金で切符を買い、誇らしげな気持ちでコニストンへ向かう夜行列車に乗り込みました。宿は村の中心部にあるバンク・ハウス(現在は Yewdale Hotel になっています)。そして、この時ランサムは偶然出会ったコリンウッド(W. G. Collingwood) に招かれ、その屋敷レインヘッドへ短い訪問をしていますが、それは翌年から始まるコリンウッド家との長く続く交わりの序章でした。
現在の Yewdale Hotel)
翌1904年には初代「ツバメ号」や、やがて4人の子ども達(Taqui、Susie、Titty(Mavis)、Roger)の母となる ドーラ(Dora Collingwood)との出会いがありました。コリンウッドは、寄宿学校へ行っている一人息子ロビン(Robin)の寝室が空いているから使ったらいいと言ってくれ、ランサムは宿からタイプライターと本でふくらんだリュックサックと旅行鞄をウォーターヘッドの桟橋まで二往復して運び、それをドーラ達がレインヘッドまでツバメ号で運んでくれたのです。(Ransome, Arthur, (1976) The Autobiography of Arthur Ransome. p.94. Cape.)
レインヘッドでの夏をランサムは自伝に次のように記しています。
その日からロンドンへ帰るまでの毎日はキラキラと夢のようで、(いつものことで)雨の日もあったろうに、思い出せるのはただ陰ることなく射す陽の光だけだった。
From then until my return to London I lived in a golden haze, I suppose it rained sometimes (it usually does) but I remember only continuous sunshine.
その明るさのもとが、コリンウッドの次女バーバラ(Barbara)でもあったことは間違いないでしょう。
ロンドンからきたボヘミアン
ロンドンでの出版、作家仲間とのつきあいと仕事に忙しい日々を送りながらも、ランサムは湖水地方で夏の休暇を過ごしています。1905年から3年間は、友人である詩人ボトムリー(Bottomley, G.)の住居のあったCartmel の Wall Nook(Windermere と海岸の町 Cark との中間、Cark駅から4kmほど北へ行ったところ)に農家の一室を借りています。レインヘッドへ頻繁に行かないようにと、わざわざコニストンから15マイルも離れたところに宿を定めたのですが、週末にはそこから歩いて(!)レインヘッドのバーバラ(Barbara Collingwood)に会いに行ったそうです。(Wardale, Roger, (1997) In Search of Swallows and Amazons. Arthuer Ransome's Lakeland. Sigma.)また、ランサムはここで親友の一人となる同宿のラッセル・アバークロンビー(Lascelles Abercrombie)と知り合っています。
ロンドンでの仕事を通して知り合った人々、作家仲間との友情、パブで過ごした夜、チェルシー河畔を歩きながら心を開いて語り合った夕べ、そうしたものはやがて一冊の本、「ロンドンにおけるボヘミア」についての本を生み出すことになります。1907年9月出版のこの本「Bohemia in London」をランサムは「しっかりした作りの灰色の本」と言っています。(Ransome, Arthur, (1976) The Autobiography of Arthur Ransome. p.115. Cape.)
Bohemia in London,Chapman & Hall,1907
「Bohemia in London」の終章の終わりにあるように、まさにランサム自身にとっても「足には青春の翼、そして僕たちの前に世界は開けていた」のでしょう。(Ransome, Arthur, (1907) Bohemia in London. p.284. Chapman & Hall.)
長いタック
1909年以降もランサムはコニストンを訪ねていますが、それらは休暇と呼べるようなものではなかったようです。Ivy との結婚、「オスカー・ワイルド論」での裁判沙汰、個人的なゴタゴタ、そしてジャーナリストとしての日々が彼を待ち受けていました。
1908年にはLow Yeadale(コニストンの北、アンブルサイドへ到る谷)に家を借りています(この時のテント暮らしの写真がありますね)。この後、湖水地方での休暇は「キラキラ輝く陽の光」の毎日ではなかったように思われますが、それは最初の妻 Ivy との(やがて破綻する)結婚がもたらしたものでしょうか。1909年妻を伴って湖水地方のなじみの場所、Cartmel の Wall Nook や Low Yewdale を訪ねていますが、それは「三日もいればもうたくさん」と言うようなものでした。
1910年9月にはランサムは単身コニストンへ行き、レインヘッドの庭にテントを張って、ロビンと帆走しています。ディンギー Jamrack で Peel Island を目指したもののあやうく船を失いそうになったのはこの時のことです。
その冬ランサム夫妻は、コリンウッド夫妻が留守にする間レインヘッドで留守番代わりに滞在していますが、この時は生後6ヶ月ほどになる娘の Tabitha も連れています。10月7日に到着したランサム夫人は、11月22日にはテント・ロッジの Miss Holt の所へお茶に行ったりもしています。Miss Holt の日記には『ランサム夫人が忘れていったハンカチを届けにいったが、彼女は頭痛で、ランサム氏は医者に診てもらいにロンドンへ行っていた』とあります。コリンウッド夫妻の帰宅に合わせて、ランサム夫妻は12月の半ばにロンドンへ帰っていきます。
1907年の終わり、ランサムは「新しいタックへ舵を切ることになった」(Ransome, Arthur, (1976) The Autobiography of Arthur Ransome. p.116. Cape.)と述べていますが、実際それは長いタックになりました(ポート・タックでしょうか)。風の振れかあるいは自ら進路を変えたのか、バウの向こうに見えるものは大きく変わることになりました。
ランサムがもう一度ティラーを押しタックを変えるのはそれから15年以上先のこと。今度船の舳先を向けるのは湖水地方、ウィンダミアの Low Ludderburn、二度目の妻 Evgenia も一緒です。その先にはウィンダミアでの実り豊かな10年が、そして、あの1928年の夏が待っていることをまだランサムは知る由もありません。