盛夏を迎え、ティッシュをクシャクシャにしたみたいな百日紅(サルスベリ)の紅い花をあちこちのお庭で見かけるけれど、それは2014年夏に逝ったアーサーと結びついている。エアコンが壊れてしまいここ10日間酷暑に耐えていたので、あの夏のことがなおさらヒシヒシと甦る。

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突然の発症で、学期最後の講義中に危篤を知らせるメイルが入った。すでにK、P、BUNが大幅に基準値を超えており、今夜が山だと獣医に言われた。獣医では手の施しようがないが、「高度医療センター」なら(動物用のそういう機関がある)人工透析もできるし紹介しましょうかと言われ、出来ることはなんでもしてやると(その頃は)思っていたから、私の帰宅を待たず友人が車でアーサーを運んでくれた。

「家に帰ること」を目標に、アーサーはそれから(イヌ用)ICUに12日間入院し、お昼から回診の始まる午後4時まで毎日アーサーの個室(といっても3帖ほどのケージだけど)で一緒に過ごした。会いに行っても顔も上げられなかったアーサーだが、やがて尾を振り、笑顔で這ってこちらに近づいてこようとした。導尿と点滴のチューブを付けたまま、体はどれほどしんどかったことか、でも飼い主に会うのがそんなに嬉しいのかと愛おしさがこみ上げた。

病院入り口に咲き誇っていた百日紅を、毎日見ていた。


書こうとしているのはアーサーのことではない。となりのケージに前足を骨折したらしくギプスをしたアイリッシュ・セターがいた。毎日見舞いに行っていた12日間に飼い主がやってきたのを目にしたのはたった一度、「人間並みの治療、そしてどんな状態でもお世話すること」を謳っている医療機関だからまかせておいて安心なわけだが、独りぼっちな隣のイヌを可哀相に思っていた。

ある午後、飼い主夫婦が見舞いにやってきた。看護師にケージから出してもらったそのアイリッシュは、嬉しくて嬉しくて飼い主に飛びつこうとしたが、二人とも大喜びするそのイヌの扱いがなってなかった。イヌにどう対処したら良いか分からない、まるで大型犬を飼ったことのない人間のように振舞った。それで直ぐに分かった「こいつら自分で散歩してないな、散歩はドッグ・ウォーカー雇って任せてるな」と。

二人はものの10分といなかった。アイリッシュは二人が出ていったドアの方をポイントし、ずっとそちらに視線を向け(セターだからそうする習性があるのは差し引いても)、先ほどまでの嬉しそうな表情はそこには無かった。そんなにあの二人が好きなのか、お前を散歩に連れて行ってもくれないのに・・・

それで知った。イヌは、散歩に連れて行ってくれるから、ボール遊びをしてくれるから、飼い主が好きなんじゃない。相手が自分の飼い主で、そういう存在だから無条件に好きなのだと。好きになる条件などないのだ。値踏みとか打算、自分にとって益になるか相手を評価した上でのお利口なお付き合いとか計算尽くの関係、時にはウソや隠し事や裏切りやら、そんな我々社会性サルの特徴(知性と呼ぶべきか)はイヌにはないのだと。ましてや、モノなんか。

飼い主が見舞いに来ないあのアイリッシュが可哀相に思えたけれど、時に、わずかな時間でも飼い主の顔を見られれば、イヌはその瞬間をあるがままに受け取るのだと知った。


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ティティ、ロジャ、アーサー、どのイヌもこんな欠点の多い人間なのに私を好いてくれた、それぞれのやり方で。私もイヌがするように人を好きになりたい、そうできたらどんなに良いだろう。

アリストテレスならこれを「フィリア(philia)」と呼んだだろうか。

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