Furness Railway

ランサムが「僕たちのためにある」と言い、物語のツバメたちが乗り湖へやってきた今は亡き鉄道

 


北へ向かう駅

ロンドンには各方面行きの列車が出発する駅がいくつかあって、例えばヴィクトリア(London Victoria)駅の向こうには海水浴発祥の地ブライトン(Brighton)があり、またユーストン(London Euston)駅の大きな柱の間を抜けるとその向こうには湖水地方さらにスコットランドが待っているという具合です。ついついロンドンを起点にして考えてしまいますが、ロンドンとイングランド中部北部の大工業都市を結びグラスゴー(Glasgow)に到る401.5マイルのこの主要幹線は、実際には北からロンドンへ向けて延長されてきたのであり、まさにその終着駅(terminus)がユーストンになりました。

1830年のマンチェスター-リバプール線開通以降、第一次鉄道新設ブームの中、London and Birmingham Railway (後の合併により1922年までは London and North Western Railway, LNWR)は1837年にロンドン ユーストンに乗り入れ、ランサムも自伝で述べている有名なドーリア式大円柱を持った駅が翌年作られました。しかし、残念なことに1960年代の新築改築工事のために取り壊され、現在その偉容を目にすることは適いません。

 

West Coast Main Line(小池 滋 (1979) 英国鉄道物語 晶文社)

West Coast Main Line(この呼称はEast Coast Main Lineに対してつけられたもので、海岸線を行くわけではありません)と呼ばれるこの本線、ユーストンを出て北へ向かう汽車が経由する駅を順にいくつかあげてみましょう。

  • ラグビー(Rugby):バーミンガムへの乗換駅
  • クルー(Crewe):リバプール、マンチェスター、アイルランド方面への乗換駅
  • プレストン(Preston):ブラックプールへの乗換駅
  • ランカスター(Lancaster):リーズ方面への乗換駅
  • カーンフォース(Carnforth):Furness Railway への乗換駅 

このようにイングランドを縦断し、主要都市を結ぶ大動脈であることがわかります。LNWR の路線はランカスターからさらに北へ、カーンフォース(Carnforth)、オクソンホルム(Oxenholme)、ペンリス(Penrith)を経てカーライル(Carlisle)まで延びていますが、この区間はすでに1836年という早い時期にその敷設案がかのスティーブンソン(George Stephenson)によって検討されています。500フィート以上の標高をもつShap Summitなどの山地を抜けていくこの路線の建設は、けして容易なものではなかったでしょう。

 

湖水地方へ乗り入れ

1844年から1848年の第二次鉄道ブーム、その5年間になんと鉄道総延長は2.5倍にもなっています。時は産業革命の時代、馬車と運河による輸送手段を瞬く間に駆逐してしまった鉄道は、目新しくかつ旨味のある資本投下先でしたし、人々は「熱に浮かされたように鉄道会社の株に飛びついた」そうです。

良く言えば「自由放任」、実のところやりたい放題の路線新設と拡張、結果としての過当競争、旅客や貨物の奪い合いと運賃値下げ、さらに買収、合併、吸収、統合と、進化論説くところの「自然淘汰」そのままの様相が繰り広げられました。路線は細かく区切られ複雑に入り組み、いったいいくつの鉄道会社が存在していたのやら。

そんな中1847年4月21日には Lancaster and Carlisle Railway( その後 London and North Western Railwayに統合)により Kendal-Windermere 間が開通しました。West Coast Main Line が Oxenholme を通り Kendal を経由しないことになったため、1845年に Oxenholme-Kendal支線が認可され、1846年9月22日に開通しこれでLNWRは湖水地方の玄関口 Windermere まで乗り入れることになったわけです。しかし、これに先立つ1844年、Kendal までの路線延長計画を聞いたワーズワースは『美しい自然を金慾の魔の手から守れ』と激烈な調子で詩を書いたそうです。もっとも彼自身だってちゃんと鉄道株を持っていたそうですが。

イングランド北部工業地帯は膨れ続ける都市労働者人口を抱えており、そうした都市から遠くない湖水地方へ観光客を運んだのがLNWRでした。一方、湖水地方から運び出されるものもありました。それは山で産出する銅、鉄、石炭、スレートなどの鉱物資源です。そもそもこれらの積み出しを目的として敷設された路線があり、それこそランサムが『僕たちのためにある』と言っているFurness Railwayです。


追われゆくもの


17世紀コニストン銅山で採掘された銅鉱石はケズウィック(Keswick)へ運ばれていましたが、やがて船でコニストン湖を下り湖尻まで運ばれるようになりました。船が着いたのはランサムがコニストンにやってくるとすぐに秘密の「儀式」をおこなったまさにその場所で、そこからCrake川河口に近いアルバストン(Ulverston)まで荷馬車で運ばれて行きました。しかし1859年のファーネス鉄道コニストン支線(Furness Railway, Coniston Branch)の開通はこの湖上輸送に終止符を打ったのです。

開通後ほどなく銅鉱山は衰退していったものの、スレート産業そしてなにより観光産業の勃興は、10マイルに満たない(約15.6km)この支線を99年間にわたり支えてきましたが、最も近い産業の中心地であった港湾都市バロウ(Barrow)への最短ルートを採っていたことは、かえって観光路線としては弱点になりました。1962年の廃線の後、線路もスイス山小屋風駅舎もすべて撤去され、鉄道線路は道路にそしてコニストン駅はライバルである車の駐車場へと姿を変えていったのです。

station_011.jpg

station_021.jpg

かつてのコニストン駅 Yewdale Hotelの許可を得て撮影

coniston_old_station.jpg

廃線となり今は駐車場


本線


1830年代終わりには湖水地方の東側を West Cast Main Line が走っていましたし、その後1847年にはKendal-Windermere間が開通して Windermere が湖水地方の入口になったものの、その西部は依然として孤立した地域でした。ここにコニストン北方の山々(Furness Fells)の名をとった鉄道、Furness Railway ができたのは1846年のことでした。

Carnforth-Whitehaven間を結び湖水地方西海岸を走るこの Furness Railway ですが、そもそもは Furness 山地から鉱物資源を海へ運ぶための鉄道として建設され、最初は Barrow と近郊を結ぶたった14マイルの路線で、他の路線とはまったく接続していませんでした。

それでもこの鉄道のお陰で、Barrow の町と港は大いに発展していくことになります。1846年当時は戸数30ほどの小さな港町にすぎなかった Barrow は造船業、鉄工業、麻産業、紙産業の町へと変貌していき、1880年代の初めには人口47,000を数えるまでに発展していきました。フリント船長の屋形船「巨象号」のモデル、「Esperance」の初代所有者 H.M. Schneider の鉄鋼会社 Barrow Steelworks はこの町を本拠地にしていました。そしてこの町こそ、ランサムとアーネスト・アルトゥニアンが「ツバメ号」と「メイヴィス号」を買いに行った場所でした。

railmap_02.png

当時の路線図

その後路線は北へ東へ伸び、1849年7月には北の Whitehaven まで延長され、また東へは1857年8月26日に Carnforth まで開通し、West Coast Main Line (London Euston-Carlisle間を結ぶ)と接続しました。Barrow-Carnforth間には Kendal を流れる Kent川河口、Windermere湖からの Leven川河口(ここへはコニストン湖から Crake川も流れ込んでいます)が横たわっていて、それらを渡河する橋が最大の難工事であったそうです。なにしろそれぞれの橋の長さは500 yards(450m)、600yards(540m)あったそうですから。

現在も Furness Railway主線は存続していて、かつての路線をたどることができます。1914年夏の時刻表と1997年冬版の時刻表を比べてみましょう。

Carnforth - Barrow 間の時刻表
1914年 1997年
Carnforth 7:00 Carnforth 7:30
Silverdale 7:09 Silverdale 7:36
Arnside 7:16 Arnside 7:40
Grange 7:25 Grange 7:46
Kent Bank 7:30 Kent Bank 7:49
Cark & Cartmel 7:36 Cark 7:53
Ulverston 7:49 Ulverston 8:01
Lindal 8 :01    
Dalton 8:05 Dalton 8:09
Furness Abbey 8:10    
Roose 8:15 Roose 8:15
Barrow 8:20 Barrow 8:22

Lindal, Furness Abbey(かつての観光名所)の駅はなくなっていますし、途中の Cark and Cartmel(若きランサムはここを訪れている)は Cark と変わっています。

 

支線

積出港である Barrow へのルートを確保するため、モアコム湾(Morecambe Bay)をぐるっと回る主線から、湖水地方の内部へ谷を登っていく5本の支線が建設されました。そのうち3支線が地図に示されていますが、いずれも廃線となっています

  • Kendal支線:Arnside-Hincaster Junction間
    Arnside(Kent川河口)から Hincaster Junction で West Coast Main Line へ接続して Oxenholme、Kendal へ到る
    湖水地方最大の商工業の町 Kendal から Lancaster へ到る商用幹線であったと推測されます。その最大の顧客は K-Shoes だったそうですから。

    1876年6月26日開通
    1942年5月4日旅客には閉鎖
    1972年1月廃線
     
  • Lake Side支線:Ulverston-Lake Side間
    UlverstonからGreenodd, Newby Bridgeなどを経由してWindermere湖尻の Lake Sideへ到る
    南からウィンダミア湖へ入る観光路線だったのでしょう。 途中駅の Greenodd は Furness Railway による湖水地方パックツアーの拠点でした。

    1869年6月1日開通
    1965年9月5日閉鎖
    1973年5月2日Haverthwaite-Lakeside間のみ保存鉄道として再開
     
  • Coniston支線:Foxfield-Coniston間
    1859年6月18日全線開通
    1958年10月4日旅客には閉鎖
    1962年4月28日廃線
     

コニストン支線

1859年6月18日に全線開通したコニストン支線、その当初の目的はコニストン銅山から銅、鉄鉱石を搬出することにありました。したがって、もよりの積出港であるBarrow-on-Furness へ到る最短ルートをとっており、主線にある Foxfield を接続駅としFurness Railway 中もっとも標高の高い Woodland と Torver 間(標高345 feet)を経由していました。

station_03.jpg

駅があったのは中腹白い家のあたり

このため列車は途中にある4つの峠を越えなければならず、前後に二両の機関車を必要としましたし(Push-Pull Train)、Lancaster、Liverpool などの都市からこの路線を使ってコニストンへ向かう場合にはUlverston を過ぎてさらに Barrow の町までモアコム湾沿い南に下り、再度 Foxfield へ北上する大廻りをしなければなりませんでした。

1914年のコニストン支線時刻表
  Carnforth発      9:50 
  Ulverston発     10:32
  Barrow発   11:10
  Foxfield乗換   11:55
  Coniston着   12:20
Gondolra時刻表
  Waterhead発   12:55
  Lake Bank着    1:30
  Lake Bank発    1:35
  Water Head着    2:10

railmap_01.png

このように 起点Carnforth を出てからコニストンまでは2時間半もかかってしまいました。地図に見るように、Ulverston-Barrow-Foxfield 間の寄り道が余計で、Barrow-Foxfield間31マイル(50キロ)がなければ、つまり Ulverston乗換-Greenodd経由で Crake渓谷を登っていけば、コニストンへの行程は半分以下で済んだはずです。もっとも Barrow と近郊の Furness Abbey は重要な観光スポットでもありましたから仕方ないことですが。

ちなみにこの蒸気船「ゴンドラ」、1859年コニストン支線全線開通の年の秋、リヴァプールで建造され鉄道で湖へ運ばれてきました。その定期運行が始まったのは翌1860年6月のことで、1871年からは船長 Felix Hamil が1921年の引退まで舵を取ったのです。「ベネチアのゴンドラと英国の蒸気船との完璧なる融合であり、滑るようなゴンドラの動きと蒸気船のスピードを兼ね備えた、優雅にして快適なヨット」であったこのゴンドラは、200名を越える乗客を乗せることができ、イースター休暇から9月の終わりまで、Water Head Hotel の桟橋と湖尻 Lake Bank の間を一日8往復していました。片道の所要時間は35分でした。

 

最後の日

Furness Railway コニストン支線
駅名 距離  
Foxfield    
Broughton 1 1/4 マイル(2km 1848年2月ここまで開通
Woodland 3 3/4 マイル(6km)  
Torver 7 1/2 (12km)  
Coniston 9 3/4 (15.6km) 1859年6月18日全線開通
1958年10月4日旅客には閉鎖
1962年4月28日廃線

1923年の四大鉄道会社への再編成、1948年からの国有化を生き延びたコニストン支線ですが、1957年には平日8本のみの運行で、日曜日には夏の数カ月を除けば運行はありませんでした。そしてついに最後の日がやってきました。

コニストンの一つ前の駅 Torver をすぎると車窓の右にはコニストン湖の素晴らしい眺めがひろがっていました。この日、1958年10月4日、Foxfield を出発した最後の下り列車はいつになく遅れ気味で、途中の駅からもたくさんの乗客が乗ってきましたし、途中のいくつもの橋や踏切では群衆が列車の通過を見送っていました。Torver駅を出て最後の区間に入ると機関手の Tom Watson は汽笛を鳴らし続けて、沿線の人々に惜別と感謝を表したのでした。9:20pmに30分遅れで列車はコニストン駅に滑り込み、やがて交替した機関手によって Barrow の機関区へ帰っていきました。(Alastair Cameron. (1996). Slate from Coniston, A history of the Coniston slate industry. Cumbria Amenity Trust Mining History Society.)

BR(British Railway)の路線廃止理由は経済的なもの、年間£16,000(現在の価値でおよそ£250,000)に達する蒸気機関車の維持費でした。この後3年半にわたりコニストン支線は貨物線として存続したのち廃線となりました。

ツバメ号の乗組員たちのように、この鉄道に乗ってコニストンを訪れることができたら良かったのに。