コリンウッド家

レインヘッド(The Lanehead)という名の屋敷はランサムの「第二の家庭」でした
あの家族のおかげで、私のその後の人生はずっと幸せなものになった。
Ransome, Arthur, (1976) The Autobiography of Arthur Ransome. p.93. Cape.

 

W.G. Collingwood

コリンウッド(William Gershom Collingwood, 1854-1932)はオクスフォードでのラスキン(John Ruskin)の学生の一人で、初めてコニストンへラスキンを訪問したのは1873年のことでした。彼は1881年までにはラスキンの住まい(Brantwood)があったコニストンへ来ていました。長くラスキンのアシスタント、秘書、「副官」を務めた彼は、ラスキンの最初の伝記を執筆していますし、またコニストン教会にあるラスキンの墓もデザインしています。ラスキンに仕えた人とはいえ、自身優れた画家、著述家、考古学者、古美術研究家でもあり、特に北方人(Northmen)の文化と歴史の専門家でした。1893年(39歳)の自画像を見ると品の良い教養のありそうな風貌で、優しいお父さまといった風情です。

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 なにより彼は「Thorstein of the mere; a saga of the northmen in lakeland」(1895)の作者であり、これはランサムが子どもの頃母親から読んでもらっていた本でした。19歳のランサムが詩を書き作家になろうとしていることを理解し励ましてくれる貴重な先達で、ランサムはコリンウッドを「The Skald」(古代北欧の吟遊詩人)と敬意を込めて呼び、「あれほど人のために尽力を惜しまない人を他に知らない」と言っています。コリンウッドは若いランサムを自分のサークルへと招待してくれ、彼はしばしばその屋敷レインヘッドを訪問しています。

 

屋敷

1891年以降コリンウッドがホルト家から借りた屋敷レインヘッド(Lanehead)は、コニストン湖の東岸、北端に近い所に建っていて、そこはラスキンの屋敷ブラントウッドから1.6kmしか離れていませんでした。ホルト家は屋敷とボートハウス、そしてディンギーも一緒に「(リース期間が切れた後も)ただで」コリンウッド家に貸してくれていたのだそうです。その船の中には初代「ツバメ号」も含まれていました。
 

ランサムとの出会い

ランサムとコリンウッドとの最初の出会いはランサムの子ども時代まで遡ります。1896年(12歳)湖尻のスワンソン農場に休暇で滞在していたランサム家はPeel Island(物語ではヤマネコ島と呼ばれる)でコリンウッド家と偶然出会い、一緒にピクニックをしました。

1903年(19歳)には勤めていたUnicorn Pressから休暇を貰い、ランサムはコニストンへ向かったのですが、そこで再びコリンウッドと出会いました。山でスケッチをしていたコリンウッドは、川の中の平らな岩に寝そべっていたランサムにこう声をかけたと言われています。​​

"Are you alive, young man ?

ランサムはそれがあの「Thorstein of the mere」の作者だとすぐにわかりました。コリンウッドはランサムが詩を書こうとしているのだと知ると、自分の屋敷レインヘッドを訪ねるようにと招待してくれ、これをきっかけにその後ランサムはたびたびレインヘッドを訪ね、またコリンウッドも彼のために部屋を用意してくれるほどでした。やがてランサムは「養子」としてコリンウッド家に迎えられるようになりましたが、彼はいつも突然のようにレインヘッドに現れたそうです、「フレンチ窓を通してブーツの音が聞こえてくると、そこにアーサーがいた」といった風に。

コリンウッドの知己を得たことは、ランサムの生涯にとって実に幸運なことだったと言えるでしょう。早く(1897年、13歳)父を亡くしたランサムにとって、この時50歳のコリンウッドは父、あるいはおじにあたる存在で、また芸術家である彼の若者への態度は、なによりランサムが必要としていながら両親からは得られなかった創作活動への理解と支援をともなっていました。この家族との交流がどれほど若いランサムにとって大事なものであったかは、彼の自伝の一節を読めば良く分かります。

その日から私には支えとなる家族ができたのだった。彼らは私がなにか悲惨な失敗にむかっているんじゃないかと考えたりしなかったし、私が何をしていても、なにか別の仕事をしたらといいのになどとは思わなかった。・・・あの家族のおかげで、私のその後の人生はずっと幸せなものになった。 From that day I had behind me a family who did not assume that I was heading for some disastrous failure and were not convinced that whatever I was doing I should be better employed doing something else.  The whole of the rest of my life has been happier because of them. (Ransome, Arthur, (1976) The Autobiography of Arthur Ransome. p.93. Cape.)

コリンウッドはコニストンでは人望の厚い名士であり、彼の学歴、芸術家としての湖水地方での生活とその地位はランサムにとってある種のお手本と言えたかも知れません。玄関を入るとすぐにそれとわかるテレピン油の匂い、朝食前に聞こえてくる母親が弾くピアノ、天井までうずたかく積まれた書籍と机に広げられた書きかけの原稿、家族のなかで交わされる芸術についての真摯な会話、そういったコリンウッド家の持っていた雰囲気と真面目で勤勉な家族の人柄は、ランサムにもう一つの「家族」を感じさせてくれました。そして彼はコリンウッド夫人を「おばさん」と呼び(コリンウッド自身妻のことを「アーサーのおばさん」と呼ぶことがありました)、足繁くそこを訪問するのです。

しかし、同じようにコリンウッド家が自分に必要な「理想の家族」と感じ、休暇には毎年招待されそこを訪れていた5歳年下の若者がいました。それはコリンウッドの長男ロビンのラグビー校での友人、アーネスト・アルトゥニアン(Ernest Altounyan)でした。

さらにランサムにとってコリンウッド家との関係が意味深いのは、一つには1904年のこと、コリンウッドの二人の娘ドーラ(Dora/Dorothy, 1886-1964)とバーバラ(Barbara, 1887-1961)に連れられてレインヘッドの桟橋へ行き、彼がそこで初めて「ツバメ号(Swallow)」に出会ったことです。レインヘッドに滞在する間に息子のロビン(Robin, 1889-1943)から帆走を教えてもらい、一緒にコニストン湖で帆走を楽しんだわけですが、二人が帆走した船は桟橋にもやわれていた「Jamrach」と「Swallow」でした。

また、共に芸術家としての才能に恵まれていた二人の娘、ドーラとバーバラはランサムの若い恋の対象ともなりました。実際ランサムはバーバラに求婚していますが、彼女は二年の後その申し出を断ります。しかし、バーバラとの親しい交流はそれで終わることはなく、彼女が1925年に Oscar Gnosspelius と結婚した後も長く続きましたし、彼女はランサムの挿絵に助力を惜しみませんでした。

一方、ドーラにもランサムは一度ならず求婚しています。しかし彼女は「本気とは思わなかった」そうですし、「彼はとても素敵で、他のどんな人ともまったく違っているけれど、私が姉妹としての感情以上のものを感じているとは思ってもらいたくない」し、「結婚したいとはけして思っていなかった」そうですAltounyan, Taqui, (1990) Chimes from a Wooden Bell. p.48. Tauris。そして彼女は1915年に弟ロビンの友人、アーネスト・アルトゥニアン(Earnest Altounyan)と結婚しました(アルトゥニアン家については別ページで)。

物語に登場する人々

ドーラの子ども達以外にも物語の登場人物としてランサムが拝借した人々をコリンウッド家に見つけることが出来ます。

妻 Edith Mary Collingwood は後に Molly と呼ばれましたが、これはアマゾン達のお母さんの名前です。また「ツバメ号とアマゾン号」を読んだコリンウッドはランサムへの手紙の中でナンシー(本名ルース)と孫娘 Ursula Ruth Collingwood (1921-1943)との類似について言及しています(1939/19/7付けの手紙 Brogan, Hugh, (1997) Signalling from Mars. p.178. Cape)。バーバラはご主人 Oscar Gnosspelius とレインヘッドから遠くない High Hollin Bank に住んでいましたが、彼がコニストン銅山の再開に奮闘する様子は6作目「ツバメ号のデンショバト」に反映されています。

墓所

コリンウッドの妻 Edith Mary Collingwood は、1928年5月24日にアルトゥニアン家のコニストン滞在中に亡くなりました。またコリンウッドは1932年10月1日に亡くなったのですが、この時もアルトゥニアン家は8月にコニストンへ来て冬まで滞在していました。葬儀は10月4日に行われ、師であり友人でもあったラスキンの墓と通路をはさんだところにコリンウッドは葬られています。


W. G. Collingwood の著作:湖水地方とコニストンに関するもの

コリンウッドは英国よりアイスランドで良く知られており、レイキャヴィク(Reykjavik)のナショナル・ミュージアムにあるWGCコレクションはアイスランドの宝と言えるものだそうです。

コリンウッド夫人が描いた絵の一枚をコニストン図書館(開館日:水曜)で見ることができます。またコリンウッドの著作はそのほとんどがケンダル(Kendal)やアルバストン(Ulverston)などのローカルな出版社から出ていたため入手が容易ではないのですが、その一部はファクシミリ・プリントとしてペーパーバックで入手できますし、原著はコニストンのラスキン博物館に所蔵されています。

  • Thorstein of the Mere. A Saga of the Northmen in Lakeland.fisrst published in 1895, Edward Arnold, London.reissued in 1905, Titus Wilson, Kendal.cheap reprint in 1909, Titus Wilson.Reissued in new format in 1929, William Heinman.
  • The Bondwoman. A Story of the Northmen in Lakeland.Titus Wilson, Kendal, 1896.
  • Coniston Tales.Wm. Holmes, Ulverston, 1899.
  • The Lake Counties.J. M. Dent & Co., London, 1902.
  • The Lake Counties. Autographed Edition.Frederick Warne and Co., London and New York, 1932.
  • Lake District History.Titus Wilson, Kendal, 1925. 

秘密と手がかり

Roger Wardale の著書 "In search of Swallows and Amazons" は『「ツバメ号とアマゾン号」探索の旅』に出ようとする人にとって貴重な道標です。「その場所」を捜しだそうと自ら湖水地方を巡った後に、彼はランサムに手紙を書いたそうですね、「他の場所はどこなのか教えていただけますか」と(Wardale, Roger, (1997) In Search of Swallows and Amazons. Arthuer Ransome's Lakeland. p.3. Sigma.)。それに対するランサムの返事は、

秘密にしておくには、決して質問に答えないことです。本に登場する場所はどこも見つけることができるでしょう。

ランサムがあの「北部の湖」と「ヤマネコ島」の場所についてほのめかしたのは、「物語は子ども時代コニストン湖で過ごした思い出の中からひとりでに生まれてきた」旨を記した1958年「ツバメ号とアマゾン号」改訂版の著者ノートがはじめてではないかと思われます。しかし、1932年3月2日に友人 E.T. Scott に宛てた手紙には、ウィンダミアで帆走をしたら島の一つ Blake Holme に行ってみたらいいと、ディンギーを買った彼にこのように書いています。

ここは最高の島の一つだ。・・・・この島はヤマネコ島として使われている島だ。そこからウの島が見えるだろう(Brogan, Huge (ed.),(1997) Signalling from Mars. The letters of Arthur Ransome. p.204. Cape.)

Low Ludderburn に住んでいた間、ランサムはウィンダミア湖でツバメ号で帆走を楽しみ、この島に上陸してピクニックを楽しんだりしています。「上陸地」の描写は実際この島のことなのかも知れませんが、岩に守られた「秘密の港」のある「ヤマネコ島」とは少し違っているようです。

さて、舞台はどこなのかという問いにランサムは答えてくれなかったものの、「ヤマネコ島」は実在するのだと確信を得た Wardale は、コリンウッド(Collingwood, W.G.)の本、"The Lake Counties" の中で Peel Island の秘密を見つけることができたと書いています(Wardale, Roger,(1997) In Search of Swallows and Amazons. Arthuer Ransome's Lakeland. p.3 . Sigma.)。

秘密が書かれているThe Lake Counties

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Dent's County Guides, edited by George A. B. Dewar として、17cmx11cm の小ぶりなこの本が出版されたのは1902年。かつての Lancashire, Westmorland, Cumberland にまたがる湖水地方全域の歴史、地誌、自然誌、人物、建物などがくわしく記されています。County Guide とは言いながらその内容は深く多岐にわたり、コリンウッドの知識と学殖が偲ばれます。

第一部をコリンウッドが執筆し、第二部は Natural History and Sports と題して10名の著者がそれぞれ得意分野を執筆しており、そのなかには Ruskin とゆかりの深い Severn家の人々の名前も見えます。第三部は A Gazetteer of the Lake Counties で湖水地方の地域、町、村などの紹介が続きます。また綴じ込みの地図がありますし、巻末のポケットには湖水地方全域地図も入っています。

その後30年を経て、この本はコリンウッド自身によって改訂されました。彼は、湖水地方はこの30年の間にほんとうに大きく変わった、それはまるで万華鏡をのぞくようだと述べています。初版の構成を踏襲していますが、第二部には執筆者として Oscar T. Gnosspelius、Barbara Collingwood のご主人にして(おそらくは)「つぶれソフト」、も参加し Motor-Boating の章を担当しています。

sig_of_wgc.jpgNew Edition revised by the authorW.G. Collingwood, Illustrated by A. Reginald SmithFrederick Warne & Co., London and New York, 1932.

 

改訂版の第一部 Their Scenery and Story の第三章 Lake Lancashire は Coniston Water について述べています。もちろん Peel Island についての記述もありますし、かつてそこでコリンウッド自身が発見した北方人の住居跡についても述べられ、そして、次のような一節を見つけることができます。

Many readers of the recent books by Mr. Arthur Ransome, "Swallows and Amazons" and "Swallowdale," will no doubt recognise this place, altered a little by the usual literary camouflage, but with all its charm preserved (Collingwood, W. G., (1932) The Lake Counties. Autographed Edition. p.61. Warne))

「ツバメ号とアマゾン号」出版は1930年のことです。子ども時代、休暇に訪れて以来湖水地方を慈しんできたコリンウッド、27才からRuskin の助手兼秘書として、また Cumberland and Westmorland Antiquarian Society の editor として半生を送り、亡くなるまで コニストンを故郷としてきたコリンウッドにとって、改訂版執筆に当たり、そこで知り合った若きランサムが自分の孫たちに書き贈った物語について一言述べておきたいという気持ちは抑えがたかったのでしょう。

その後

家族の中でただ一人の男の子ロビンにはきちんとした教育を受けさせ、学位をとらせることをコリンウッドは熱望していたそうですが、13歳で Grange(モアコム湾に近い町)にあった寄宿学校 Podmore校に入学するまでロビンの教育はもっぱら家で父親から与えられました。それは4歳で始まったギリシャ語、6歳からのラテン語、自然科学、そして父親の専門であった歴史を含むものだったそうで、学校へ行ってからもロビンは学業に関してはまったく苦労することはなかったそうです(Collingwood, R. G., (1938) An Autobiography. Oxford University Press.) 。1902年にラグビー、そしてオクスフォードへ進学したロビンはその後哲学の教授となっていますし(1935年~1941年)、また「ローマ支配時代の英国」についての専門家でもありました。現在でもロビンの哲学についての団体 Robin Collingwood Society が存在します。ロビン・コリンウッドの遺稿を編纂した編者は次のようにロビンの最期を記しています。

1932年頃から彼は病患に苦しみ始め・・・以降の数年内のある時点で、細い脳血管が破裂し始め、その結果、脳の小部分が影響を受けて活動を止めた。1938年に最初の連続的発作に襲われて、ついに全身不随に陥ったのも、右の推移が強化したものに他ならなかった。(R. G. Collingwood.(1945) The Idea of History edited by T. M. Knox. Clarendon Press. 「歴史の観念」(1970, 2002)紀伊國屋書店)

コリンウッドの3人の娘のうちドーラ、バーバラとも他家に嫁いでいましたし(三女 Ulsuraについては承知していません)、女子が家と財産を継ぐことはこの時代でもあり得ないことだったのかもしれませんが、しかし残念ながら一人息子ロビンは1943年に54歳で亡くなっています。娘の Ulsula(22歳)と同年の早い死で、ひょっとしたら戦時中の出来事なのかも知れませんが、詳細は承知していません。1973年に亡くなった妻 Ethel と共にロビンはコニストン教会の墓地に葬られています。従ってコリンウッド家を継ぐことになるのは「Collingwood」の名をミドルネームに持つロジャ(Roger Edward Collingwood Altounyan)と言うことになるのでしょうが、ロジャは1988年に66歳で亡くなっています。

コリンウッド家が住んでいたレインヘッドは、実際には Miss Holt から借りていたものでしたから、コリンウッド家の人々が相続すると言うことはなく、(恐らくは)Miss Holt の死後、屋敷はその相続人に譲られたかあるいは売りに出されたのでしょう。Taqui の自伝や Robin の自伝にもあるようにコリンウッド家はけして裕福な家族ではなかったようです。Taqui 曰く「どの家具を買おうかと心を悩ませるような人々ではなかった」そうで((Altounyan, Taqui, (1990) '''Chimes from a Wooden Bell.''' p.57. Tauris.))、コリンウッド夫妻の描く絵、夫人が依頼されて描いた肖像画や花の絵は家族の収入の一部であったと想像されます。ですから、いかに想い出深い場所とはいえ、レインヘッドを自分たちの屋敷として購入することは不可能だったのではないかと思われます。

そう言うわけで屋敷レインヘッドとコリンウッド家とのつながりは絶たれ、今、その屋敷は子ども達が船を出した専用の艇庫、桟橋も含めて、Middlesbrough市が所有し、「課外教室(outdoor education centre)」として使われています。管理している女性に中を見せてもらいましたが、以前バーバラのスタジオであった部屋はなくなっていますし、そこへ通じる大きなドアもなくなり壁になっていました。でも、教育施設となったために、学校の学期中には一回に24名の小学生が一週間ここで過ごすそうで、合羽を着て艇庫まで草原を駈け下っていく子ども達の姿を見ることができます。

ここにはかつてコリンウッド家が住んでいて、その孫たちがこの艇庫から「ツバメ号」と「メイヴィス号」を出したんだと、きっと彼らは知ることでしょう。