アマゾンたち
コニストンで休暇を過ごすもう一組の家族がいました
We're going to school at the end of the summer. - Peggy
(Ransome, Arthur. (1930). Swallows and Amazons. p.368. Cape.)
大戦と大戦の間1920年代から1930年代にかけての英国湖水地方、とくにコニストンに存在した「静けさ(tranquillity)」というものを理解することは日本人にとっては大変難しいことでしょう。幸運に恵まれてここを訪れたとしても、たいていは夏の観光シーズン真っ盛りとくればそれはなおさらです。できることは、当時そこに住みあるいは夏を過ごしていた人々が書き残したもの、そしてもちろんランサムの物語を読んでその雰囲気を想像するだけです。
村の中心にある教会(St. Andrew Church)の塔から北西方向への眺め。古い絵はがきより
A. Heaton Cooperの描くコニストン, 1905
1920年代まだスレート産業は衰退しておらず、コニストン駅には積み出されるのを待つスレート(特産の美しいグリーン・スレート)が山積みになっていました。当時コニストンにはグラマー・スクール(Grammar School、進学を目的にした中高等学校)はなく、1926年コニストンの初等学校(Primary School、11歳まで)を終えた35名の生徒のうち、アルバーストン(Ulverston)のグラマー・スクールへ進学したのは3名だけでした。また、スレート産業を除けば、村の人々の生計は農業や牧畜が主であり、そうした農家の子供たちは「湖のほとりに出て遊ぶ」などということはまったくなかったそうです。
そんな時代、コニストン湖東岸にはここで夏の休暇を過ごす二家族がいて、同年代の子ども達がいました。アルトゥニアン家(Altounyans)の4人の子供たち、そしてスミス家(Smiths)のロードン(Rawdon)、ジョージナ(Georgina)、ポーリン(Pauline)の兄弟姉妹です。
夏の家
ロードンたちの祖母はエマ・ホルト(Emma Holt)の従兄弟にあたり、ホルト家がコニストンに住むようになる前からレインヘッド(The Lanehead、後にコリンウッド家がホルト家から借りる家)に住んでいました(1877年から1891年まで)。ロードンたちの父、ジョージ・スミス(George Rawdon Smith)はリバプールの医師でそこに家があったわけですが、母メイジー(Maisie Smith)はコニストンに家を借り、家族は学校の休暇中はコニストンで過ごしていました。そこはレインヘッドのすぐ下にあるバンク・グラウンド・コテッジ(Bank Ground Cottage)でした。
大文字のLの形をしたバンク・グランウンドは農場およびお客を泊める部分とコテッジとして人に貸す部分に分かれていました。建物の南、湖に向かって突き出した部分はコテッジで、ウェブ(Clifford Webb)の挿絵に見ることのできる「ハリ・ハウ」のドアはコテッジの入口でした。アルトゥニアン家が滞在していたバンク・グラウンド・ファーム(Bank Ground Farm)の入口(今はグリーンのドアが付いていますね)は裏にあり、そこからは建物のぐるっとまわらないと湖へは出られなかったそうです。
クリフォード・ウェブの描くハリ・ハウ from the copy of 1937
友だち
- ロードン Alexander Francis Rawdon Smith 1912-1991
- ジョージー Georgina Rawdon Smith 1914-1967
- ポーリー Pauline Rawdon Smith 1918年生
スミス家の子ども達はエマおばさん(Cousin Emma)の屋敷テント・ロッジへお茶にいったり、アルトゥニアン家の子供たちと一緒にピール島でピクニックをしたりしています。ピール島で木に登っているジョージー、クラシックな水着を着た姉妹そしてロードンが、彼は近眼で眼鏡をかけておりスポーツマンタイプではなかったそうですが、白い帆でクリンカー張りの緑に塗られた16フィートのディンギー、「ビートル号(Beetle)」を帆走させている様子、そしてどの写真よりもポーリーが半ズボン(ニッカボッカー)をはいて石で水切りをしている姿は、ランサムが描く物語の一場面のようです。
同じ年そこにいた両家の子ども達は友達で、ポーリーたちとツバメたち(アルトゥニアン家の子ども達)は一緒に遊んでいます。1928年5月31日付のテント・ロッジの日記には、
(スミス家の)子ども達は午後アルトゥニアン家の子ども達と一緒に遊ぶために帰ってきて、お茶まで彼らと一緒にいた
ことが記されています。また、同年9月1日にはジョージー(14歳)とタキ(11歳)が『湖を泳いで横断した』と誉めてあります。レインヘッドのボートハウスから「ゴンドラ」の桟橋までのその距離は440ヤード(約400メートル)、Collingwoodが地図の上できちんと測ったそうです。(Altounyan, Taqui.(1994). Sevens - I think that is what this talk is about. Web site of TARS, Arthur Ransome Literary Pages.)
ヤマネコのふりをする少女
ポーリーはランサムにバンク・グラウンドの桟橋で初めて会ったときのことをこんな風に回想しています。
桟橋で私がパーチを釣っていたときのこと、父が帽子をかぶった大きな男の人を連れてきた。その人はにこやかな微笑みを眼鏡の奥にたたえていて、桟橋の隙間に落ちた魚を取り出すのを手伝ってくれた。父はその人に「一番下の娘です」と言い、「ポーリー、ランサムさんに挨拶をしなさい」と言った(Marshall, Pauline. (1991). Where It All Began. The Origins of Swallows and Amazons. p.6.)
ランサムがアルトゥニアン家の4人に模してツバメ達を創りあげたのは確かですが、アマゾン達については「コニストン湖で帆走しているときに、岸辺で遊んでいる二人の女の子を見た」あるいは「ブラケット家のことを思い出した」と述べているだけです。しかし、ポーリーは幼かった頃、自分が「ヤマネコ」になったふりをするのがお気に入りだったことも思い出しています。
ネコの着ぐるみ、顔だけ出る頭から足まですっぽり被うヤマネコの衣装をつけた少女、その子は4歳年上の姉とコニストン湖の岸辺で遊び、ピール島でピクニックをし、隣に滞在していたツバメたちと一緒に遊びました。また姉妹の兄ロードンは眼鏡をかけて帆船「ビートル号」を操り、自分で無線機を組み立てるような賢い少年でした(彼は後にケンブリッジでPh.Dとなっていますが、なんとなくディックを連想させます)。
ポーリーの本、Where It All Began
ですから後年、ポーリーが「ツバメ号とアマゾン号」を読んで、自分たちの幸せだった生活が物語の中に描かれていると思うのは当然かも知れませんし、そして『私はすべての始まりとなったそこにいた』と満足感を覚えるのももっともなことなのでしょう。
BBC製作の「ツバメ号とアマゾン号(モノクロ版)」の映像、そしてスミス家の姉妹の一人ポーリーへのインタビュー映像。撮影地はコニストン(ソースは不明)
土地っ子/よそ者
スミス家は母メイジーの死後、1935年(?)ごろディンギーも売りはらって、コニストンでの生活をやめています。エマ・ホルトの死後、テント・ロッジはポーリーの叔父が相続しましたが、その後売却されスミス家とコニストンとの関係はそこで切れています。
スミス家は夏の休暇をコニストンで過ごす人々でしたし、それはアルトゥニアン家も同じでしょう。英国での階級(Class)という存在は容易に理解できるものではないでしょうが、しかし彼らはみなある「階層」の人々(裕福であるかどうかではなく)であったのは確かです。ランサムはラグビー校出身ですが、ポーリーの兄ロードンもラグビーへ行っています。また、コリンウッド家のロビン、アーネスト・アルトゥニアンも同じくラグビー校の同窓生です。彼らは年少の頃は寄宿学校(Boarding School)へ行っていたはずです。
『労働者階級の子どもは家から学校へ通う、ミドルクラスの子どもは家を離れ寄宿学校で暮らす、上流階級の子どもは家で家庭教師から学ぶ』とは英国の友人から聞かされたことですが、ペギーが言っている通り、物語の中の子ども達もみなボーディング・スクールへ行っています。
休暇がおわったら私たち学校へ戻るのよ(Ransome, Arthur. (1930). Swallows and Amazons. p.368. Cape.)
物語を読んだ時、子供心にそうか夏休みが終われば2学期だよなと思ったものですが、これは文字通りのこと、子ども達は「家へ」帰るのではなく「寄宿学校」へ帰るのですね。女の子はいざ知らず、ジョン、ロジャ、ディックはラグビーのようなパブリック・スクールへ進学するに違いありません。物語は大戦と大戦の間の英国の田舎を舞台にして、そうした子ども達を描いているという側面も忘れるべきではないでしょう。