初代ツバメ号
20歳のランサムが帆走を覚えた船
Robin and I raced in Swallow and Jamrach to the foot of the lake and back. (Ransome, Arthur. (1976). The Autobiography of Arthur Ransome. p.137. Cape.)
1904年夏のこと、20歳のランサムは昨年コニストンで偶然再会したコリンウッドを訪問すべく、湖の上(Water Head)をまわってその屋敷レインヘッド(Lanehead)へ続く坂道を歩いていました。そしてその日がランサムにとって「新たな人生」の始まりとなったのです
A new life had begun for me that day.(Ransome, Arthur. (1976). The Autobiography of Arthur Ransome. p.93. Cape.)
その理由はもちろんコリンウッド家との交流が始まったことですが、さらにその日の午後、コリンウッドの娘、ドーラとバーバラに連れられレインヘッドの桟橋まで下りていったランサムはそこで初めてツバメ号(the Swallow)に出会ったのでした。そして「朝早くいらっしゃい」と言われて再度屋敷を訪問した次の日、コリンウッド夫人からパンにマーマレードそれにヤカンを持たされ、ランサムは子ども時代の思い出の場所ピール島(Peel Island)へと湖を下ったのです。
王朝の始まり
「ツバメ号(the Swallow)」の名を持つ船はランサムの生涯で合計3ハイが知られていますが、この初代ツバメ号はテント・ロッジに住んでいたホルト家の持ち物で、コリンウッド家が屋敷と一緒に借りていたものでした。その詳細は明らかではありませんが、自伝には「フィッシングボートだった船で、おそろしく重くて漕ぐのは適さないが帆走にはまあまあだった」とあります。古いディンギーですからもちろんガフ・リグですが、「ツバメ王朝(Swallows Dynasty)」のその後の船との大きな違いは、この船がスループ(二枚帆)だったことです。大きさは他のツバメ号を同じくらい(13-14ft、約4m)かと推測されます。
写真はPauline Maarshall. Where it all began.より引用
帆走の日々が始まる
コリンウッドの一人息子ロビン(Robin Gersham Collingwood)はランサムより5歳年下でしたがラグビー校へ通っていてランサムと同窓でした(後にOxfordへ進学)。ロビンは休暇に帰省したときはランサムと共にコニストン湖で帆走を楽しみました。二人はピール島でキャンプをしたり、ピール島までの往復レースを競ったりしていますが、彼らが乗った船には「Swallow」ともう1パイ「Jamrach」という古い船がありました。
「Jamrach」はミズン・マスト(船尾近くにたつ小さなマスト)を持ち、一部分デッキが張ってありました。したがって帆を3枚(ジブ・セイル、メイン・セイルそれにミズン・セイル)張ることができ、「Swallow」より少し大きかったように思われます。しかし、ロビンもランサムもいつもシングル・ハンド(single handed 一人で操船)だったと自伝には述べられています。
夜間航海
1910年10月、Tent Lodgeの桟橋から「Jamrach」でランサムは単独ピール島への航海にでました。風は南、タックを繰り返してピール島まで下り、帰りは追い風で楽に帰ってこれると踏んだのですが、島まであと400mというところで突然風が落ち、天気は急変。突風にあおられ激しいジャイブをし、ガフが壊れてしまいました。風は北からの強風に変わり、完全な向かい風となった帰路は大変な航海となったようです。暗闇の中、なんとか桟橋に帰り着くことができたのは幸運ばかりではなく、ランサムの沈着な対処と帆走の腕のおかげでしょう。(Ransome, Arthur. (1976). The Autobiography of Arthur Ransome. p.137. Cape.)
「Swallow」も「Jamrach」も現在の日本では見ることのできないクラシックなディンギーですが、ランサムが帆走を練習するにはうってつけの船だったに違いありません。著述家として身を立てようとしていた時代、文芸評論を書いていた時代のことです。この後ランサムはロシアで政治とジャーナリズムの渦に巻き込まれていき、次の「ツバメ号」に出会うまでには20年の歳月が流れなければなりません。