コリンウッド家

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コリンウッド家

レインヘッド(The Lanehead)という名の屋敷はランサムの「第二の家庭」でした


W.G. Collingwood

 コリンウッド(William Gershom Collingwood, 1854-1932)はオクスフォードでのラスキン(John Ruskin)の学生の一人で、初めてコニストンへラスキンを訪問したのは1873年のことでした。彼は1881年までにはラスキンの住まい(Brantwood)があったコニストンへ来ていました。長くラスキンのアシスタント、秘書、「副官」を務めた彼は、ラスキンの最初の伝記を執筆していますし、またコニストン教会にあるラスキンの墓もデザインしています。ラスキンに仕えた人とはいえ、自身優れた画家、著述家、考古学者、古美術研究家でもあり、特に北方人(Northmen)の文化と歴史の専門家でした。1893年(39歳)の自画像を見ると品の良い教養のありそうな風貌で、優しいお父さまといった風情です。

コリンウッド自画像1893年12月19日(39歳)

 なにより彼は「Thorstein of the mere; a saga of the northmen in lakeland」(1895)の作者であり、これはランサムが子どもの頃母親から読んでもらっていた本でした。19歳のランサムが詩を書き作家になろうとしていることを理解し励ましてくれる貴重な先達で、ランサムはコリンウッドを「The Skald」(古代北欧の吟遊詩人)と敬意を込めて呼び、「あれほど人のために尽力を惜しまない人を他に知らない」と言っています。コリンウッドは若いランサムを自分のサークルへと招待してくれ、彼はしばしばその屋敷レインヘッドを訪問しています。

屋敷

 1891年以降コリンウッドがホルト家から借りた屋敷レインヘッド(Lanehead)は、コニストン湖の東岸、北端に近い所に建っていて、そこはラスキンの屋敷ブラントウッドから1.6kmしか離れていませんでした。ホルト家は屋敷とボートハウス、そしてディンギーも一緒に「(リース期間が切れた後も)ただで」コリンウッド家に貸してくれていたのだそうです。その船の中には初代「ツバメ号」も含まれていました。

レインヘッド レインヘッド レインヘッド

ランサムとの出会い

 ランサムとコリンウッドとの最初の出会いはランサムの子ども時代まで遡ります。1896年(12歳)湖尻のスワンソン農場に滞在していたランサム家はPeel Islandでコリンウッド家と偶然出会い、一緒にピクニックをしました。

 1903年(19歳)には勤めていたUnicorn Pressから休暇を貰い、ランサムはコニストンへ向かったのですが、そこで再びコリンウッドと出会いました。山でスケッチをしていたコリンウッドは、川の中の平らな岩に寝そべっていたランサムにこう声をかけたと言われています。

"Are you alive, young man ?"

ランサムはそれがあの「Thorstein of the mere」の作者だとすぐにわかりました。コリンウッドはランサムが詩を書こうとしているのだと知ると、自分の屋敷レインヘッドを訪ねるようにと招待してくれ、これをきっかけにその後ランサムはたびたびレインヘッドを訪ね、またコリンウッドも彼のために部屋を用意してくれるほどでした。やがてランサムは「養子」としてコリンウッド家に迎えられるようになりましたが、彼はいつも突然のようにレインヘッドに現れたそうです、「フレンチ窓を通してブーツの音が聞こえてくると、そこにアーサーがいた」といった風に。

 コリンウッドの知己を得たことは、ランサムの生涯にとって実に幸運なことだったと言えるでしょう。早く(1897年、13歳)父を亡くしたランサムにとって、この時50歳のコリンウッドは父、あるいはおじにあたる存在で、また芸術家である彼の若者への態度は、なによりランサムが必要としていながら両親からは得られなかった創作活動への理解と支援をともなっていました。この家族との交流がどれほど若いランサムにとって大事なものであったかは、彼の自伝の一節を読めば良く分かります。

その日から私には支えとなる家族ができたのだった。彼らは私がなにか悲惨な失敗にむかっているんじゃないかと考えたりしなかったし、私が何をしていても、なにか別の仕事をしたらといいのになどとは思わなかった。・・・あの家族のおかげで、私のその後の人生はずっと幸せなものになった。

From that day I had behind me a family who did not assume that I was heading for some disastrous failure and were not convinced that whatever I was doing I should be better employed doing something else. --- The whole of the rest of my life has been happier because of them.*5

 コリンウッドはコニストンでは人望の厚い名士であり、彼の学歴、芸術家としての湖水地方での生活とその地位はランサムにとってある種のお手本と言えたかも知れません。玄関を入るとすぐにそれとわかるテレピン油の匂い、朝食前に聞こえてくる母親が弾くピアノ、天井までうずたかく積まれた書籍と机に広げられた書きかけの原稿、家族のなかで交わされる芸術についての真摯な会話、そういったコリンウッド家の持っていた雰囲気と真面目で勤勉な家族の人柄は、ランサムにもう一つの「家族」を感じさせてくれました。そして彼はコリンウッド夫人を「おばさん」と呼び(コリンウッド自身妻のことを「アーサーのおばさん」と呼ぶことがありました)、足繁くそこを訪問するのです。

 しかし、同じようにコリンウッド家が自分に必要な「理想の家族」と感じ、休暇には毎年招待されてきていた5歳年下の若者がいました。それは息子ロビンのラグビー校での友人、アーネスト・アルトゥニアン(Ernest Altounyan)でした。

 さらにランサムにとってコリンウッド家との関係が意味深いのは、一つには1904年のこと、コリンウッドの二人の娘ドーラ(Dora/Dorothy, 1886-1964)とバーバラ(Barbara, 1887-1961)に連れられてレインヘッドの桟橋へ行き、彼がそこで初めて「ツバメ号(Swallow)」に会ったことです。レインヘッドに滞在する間に息子のロビン(Robin, 1889-1943)から帆走を教えてもらい、一緒にコニストン湖で帆走を楽しんだわけですが、二人が帆走した船は桟橋にもやわれていた「Jamrach」と「Swallow」でした。

 また、共に芸術家としての才能に恵まれていた二人の娘、ドーラとバーバラはランサムの若い恋の対象ともなりました。実際ランサムはバーバラに求婚していますが、彼女は二年の後その申し出を断ります。しかし、バーバラとの親しい交流はそれで終わることはなく、彼女が1925年に Oscar Gnosspelius と結婚した後も長く続きましたし、彼女はランサムの挿絵に助力を惜しみませんでした。

 一方、ドーラにもランサムは一度ならず求婚しています。しかし彼女は「本気とは思わなかった」そうですし、「彼はとても素敵で、他のどんな人ともまったく違っているけれど、私が姉妹としての感情以上のものを感じているとは思ってもらいたくない」し、「結婚したいとはけして思っていなかった」そうです*1。そして彼女は1915年に、弟ロビンの友人、アーネスト・アルトゥニアン(Earnest Altounyan)と結婚しました。

登場する人々

 ドーラの子ども達以外にも物語の登場人物としてランサムが拝借した人々をコリンウッド家に見つけることが出来ます。

 妻 Edith Mary Collingwood は後に Molly と呼ばれましたが、これはアマゾン達のお母さんの名前です。また「ツバメ号とアマゾン号」を読んだコリンウッドはランサムへの手紙の中でナンシー(本名ルース)と孫娘 Ursula Ruth Collingwood (1921-1943)との類似について言及しています*2(1939/19/7付けの手紙)。バーバラはご主人 Oscar Gnosspelius とレインヘッドから遠くない High Hollin Bank に住んでいましたが、彼がコニストン銅山の再開に奮闘する様子は6作目「ツバメ号のデンショバト」に反映されています。

 妻 Edith Mary Collingwood は、1928年5月24日にアルトゥニアン家のコニストン滞在中に亡くなりました。また夫コリンウッドは1932年10月1日に亡くなったのですが、この時もアルトゥニアン家は8月にコニストンへ来て冬まで滞在していました。葬儀は10月4日に行われ、師であり友人でもあったラスキンの墓と通路をはさんだところにコリンウッドは葬られています。

コリンウッドの墓 コリンウッドがデザインしたラスキンの墓

W. G. Collingwood の著作:湖水地方とコニストンに関するもの

 コリンウッドは英国よりアイスランドで良く知られており、レイキャヴィク(Reykjavik)のナショナル・ミュージアムにあるWGCコレクションはアイスランドの宝と言えるものだそうです。

 コリンウッド夫人が描いた絵の一枚をコニストン図書館(開館日:水曜)で見ることができます。またコリンウッドの著作はそのほとんどがケンダル(Kendal)やアルバストン(Ulverston)などのローカルな出版社から出ていたため入手が容易ではないのですが、その一部はファクシミリ・プリントとしてペーパーバックで入手できますし、原著はコニストンのラスキン博物館に所蔵されています。

  • Thorstein of the Mere. A Saga of the Northmen in Lakeland.
    fisrst published in 1895, Edward Arnold, London.
    reissued in 1905, Titus Wilson, Kendal.
    cheap reprint in 1909, Titus Wilson.
    Reissued in new format in 1929, William Heinman.
  • The Bondwoman. A Story of the Northmen in Lakeland.
    Titus Wilson, Kendal, 1896.
  • Coniston Tales.
    Wm. Holmes, Ulverston, 1899.
  • The Lake Counties. Autographed Edition.
    Frederick Warne and Co., London and New York, 1932.
  • Lake District History.
    Titus Wilson, Kendal, 1925.

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その後

 家族の中でただ一人の男の子ロビンにはきちんとした教育を受けさせ、学位をとらせることをコリンウッドは熱望していたそうですが、13歳で Grange(モアコム湾に近い町)にあった寄宿学校 Podmore校に入学するまでロビンの教育はもっぱら家で父親から与えられました。それは4歳で始まったギリシャ語、6歳からのラテン語、自然科学、そして父親の専門であった歴史を含むものだったそうで、学校へ行ってからもロビンは学業に関してはまったく苦労することはなかったそうです*3 。1902年にラグビー、そしてオクスフォードへ進学したロビンはその後哲学の教授となっていますし(1935年~1941年)、また「ローマ支配時代の英国」についての専門家でもありました。現在でもロビンの哲学についての団体 Robin Collingwood Society が存在します。

 コリンウッドの3人の娘のうちドーラ、バーバラとも他家に嫁いでいましたし(三女 Ulsuraについては承知していません)、女子が家と財産を継ぐことはこの時代でもあり得ないことだったのかもしれませんが、しかし残念ながら一人息子ロビンは1943年に54歳で亡くなっています。娘の Ulsula(22歳)と同年の早い死で、ひょっとしたら戦時中の出来事なのかも知れませんが、詳細は承知していません(下記注を追記)。1973年に亡くなった妻 Ethel と共にロビンはコニストン教会の墓地に葬られています。従ってコリンウッド家を継ぐことになるのは「Collingwood」の名をミドルネームに持つロジャ(Roger Edward Collingwood Altounyan)と言うことになるのでしょうが、ロジャは1988年に66歳で亡くなっています。

ロビン・コリンウッドの遺稿を編纂した編者は次のようにロビンの最期を記しています。

1932年頃から彼は病患に苦しみ始め・・・以降の数年内のある時点で、細い脳血管が破裂し始め、その結果、脳の小部分が影響を受けて活動を止めた。1938年に最初の連続的発作に襲われて、ついに全身不随に陥ったのも、右の推移が強化したものに他ならなかった。

R. G. Collingwood.(1945) The Idea of History edited by T. M. Knox. Clarendon Press. 「歴史の観念」(1970, 2002)紀伊國屋書店

 コリンウッド家が住んでいたレインヘッドは、実際には Miss Holt から借りていたものでしたから、コリンウッド家の人々が相続すると言うことはなく、(恐らくは)Miss Holt の死後、屋敷はその相続人に譲られたかあるいは売りに出されたのでしょう。Taqui の自伝や Robin の自伝にもあるようにコリンウッド家はけして裕福な家族ではなかったようです。Taqui 曰く「どの家具を買おうかと心を悩ませるような人々ではなかった」そうで*4、コリンウッド夫妻の描く絵、夫人が依頼されて描いた肖像画や花の絵は家族の収入の一部であったと想像されます。ですから、いかに想い出深い場所とはいえ、レインヘッドを自分たちの屋敷として購入することは不可能だったのではないかと思われます。

 そう言うわけでレインヘッドとコリンウッド家とのつながりは絶たれ、今、その屋敷は子ども達が船を出した専用の艇庫、桟橋も含めて、Middlesbrough市が所有し、「課外教室(outdoor education centre)」として使われています。管理している女性に中を見せてもらいましたが、以前バーバラのスタジオであった部屋はなくなっていますし、そこへ通じる大きなドアもなくなり壁になっていました。でも、教育施設となったために、学校の学期中には一回に24名の小学生が一週間ここで過ごすそうで、合羽を着て艇庫まで草原を駈け下っていく子ども達の姿を見ることができます。

 ここにはかつてコリンウッド家が住んでいて、その孫たちがこの艇庫から「ツバメ号」と「メイヴィス号」を出したんだと、きっと彼らは知ることでしょう。


*1 Altounyan, Taqui, (1990) Chimes from a Wooden Bell. p.48. Tauris
*2 Brogan, Hugh, (1997) Signalling from Mars. p.178. Cape.
*3 Collingwood, R. G., (1938) An Autobiography. Oxford University Press.
*4 Altounyan, Taqui, (1990) Chimes from a Wooden Bell. p.57. Tauris.
*5 Ransome, Arthur, (1976) The Autobiography of Arthur Ransome. p.93. Cape.

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