ツバメたち

ウォーカー家の4人の子供、「ツバメたち」を生み出すきっかけをランサムに与えた家族はコニストンで休暇を過ごしていました

二人の祖父

一人はアルメニア生まれの医師アルトゥニアン(Aram Assadour Altounyan)、彼はシリアのアレッポ(Allepo)で病院を経営していました。もう一人はオクスフォード出の芸術家コリンウッド(William Gershom Collingwood)、彼は湖水地方に居を構えていました。彼らの孫であるアルトゥニアン家の子ども達のうち、女の子はそれぞれアルメニア名を持っていました。

  1. Barbara Taqui Altounyan:1917年ー2001年  ハムステッド(Hampstead)生
  2. Susan Arshalouis Altounyan:1919年ー2003年  ハムステッド生
  3. Mavis Araxi Altounyan 1920年ー1998年  アレッポ(Aleppo)生
  4. Roger Edward Collingwood Altounyan :1922年ー1987年  アレッポ生
  5. Brigit Mary Lucine Altounyan:1926年ー1999年  アレッポ生

あの年、1928年に彼らは11歳、9歳、8歳、6歳そしてブリジットは赤ちゃんでした。子ども達がなぜコニストンでランサムと出会ったのかを知るには、彼らの父親アーネスト・アルトゥニアン(Earnest Altounyan)が初めて友人から湖水地方へ招待された年まで、26年の歳月を遡る必要があります。

孤独な若者

アルメニア人の父、アイルランド人の母を持つアーネスト・アルトゥニアン(Ernest Altounyan)は1889年、祖国を遠く離れたロンドンで生まれました。父がシリアのアレッポ(Allepo)に築いた病院を継ぐ立場にあった彼は、医師そして英国紳士となるべく英国流の高度な教育を受けて育ちました。彼は幼少の頃から親元を離れ寄宿学校(Boarding School)へ入り、パブリック・スクールのラグビー校を経てケンブリッジへ進学しています。

遠いシリアにある父から離れて成長したその境遇はランサムのそれと似ていますし(父はランサムが幼少のころに亡くなっています)、文学への深い造詣と著述家への憧憬、また帆走に傾ける情熱もランサムと共通するところがあります。しかしアーネストは大学を中退することはありませんでしたし、ボヘミアンの生活を送ってもいません。彼が残した唯一の著作は友人であったロレンス(T.E. Lawrence)の事故死の後、6ヶ月の内に出版された詩集のみです。

Altounyan, E.H.R. (1937). ORNAMENT OF HONOUR. Cambridge University Press.

またアーネストは ロレンスの友人の一人として

T.E. Lawrence by Friends. (1937) Cape. の一章 "Manhood" を執筆しています。

とはいえこの二人は、それぞれの生涯にとって最も貴重な出来事を共有していました。それはコニストン、レインヘッド(Lanehead)でのコリンウッド家との邂逅でした。

 


理想の家族

コリンウッドの一人息子ロビン(Robin Collingwood)と同い年のアーネストはラグビー校で彼と親友になり、1902年初めてレインヘッドへ招待されると、それは毎年恒例のこととなったのです。異国で親元から離れて育つ少年にとってレインヘッド訪問がどれほど待ち遠しいものであったかは想像に難くありません。そこにいると「家に帰ってきた」という安らぎが彼を包み、休暇になるとアーネストは「出来るだけ早く伝書鳩のようにレインヘッドへ戻ってきた(Altounyan, Taqui. (1990). Chimes from a Wooden Bell. p.58. Tauris.)」そうです。

アーネストはロビンと寝起きをともにし、帆走を楽しみ、時には口論し、あの家族の中で「身内、家族の一員」としての地位を獲得していきました。彼はシングルハンド(一人乗り)で帆走する自信がつくやいなや船をピール島(Peel Island)へと向けたそうです。コリンウッド家の六人、両親と三人の娘(Dora, Barbara, Ulsula)と一人の息子(Robin)。それは奇しくも物語中のウォーカー家の人数と同じです。

しかし1904年からアーネストはもう一人の青年とその地位を巡って競うことになります。詩を書きたいと言うその青年を笑い飛ばしたりしなかったコリンウッドとその家族は、ランサムにとっても「後ろ盾となる家族」であったのです。 彼と5歳年上のランサムが競ったものはそればかりでなく、もう一つ、コリンウッドの二人の娘ドーラとバーバラの愛情もそうでした。ランサムは双方に求婚していますが、バーバラは熟考ののちそれを断り、ドーラは本気とは受け取らなかったそうです。

ランサムはその後、彼の求婚(の練習をしていたそうですが)を受け入れてしまった Ivy Walker と1909年に結婚、しかし二人の生活はすぐに破綻し彼はロシアへ旅立ち、そこで二度目の妻となる Evgenia と出会います。一方アーネスト・アルトゥニアンはドーラ・コリンウッドを娶り、結婚式は1915年9月7日11時コニストン教会で執り行われました。

 

里帰り

英国の病院で外科医としての研修をつんでいる間に長女タキ(Taqui)と次女スーザン(Susan)が誕生しています。1919年に家族を連れて離英、アレッポへ帰国しますが、アルトゥニアン家はほぼ4年ごとにコニストンを訪れており、それは休暇と医学研究の双方が目的だったのでしょう。

  1. 1919年5月(この年はシリアからの帰省ではありません):アレッポへの長い旅路につく前に、タキとまだ赤ちゃんのスージーを連れて家族はレインヘッドを訪れています。10月はじめにコニストン駅から汽車に乗りアレッポまで一ヶ月余りの長い旅路を始めたのです。6月にはロシアから一時帰国したランサムと再会しているはずです。
  2. 1923年6月8日:この時には6歳になって背の高い少女になったタキ、スージーそしてアレッポで生まれた3歳になるティティ(Titty/Mavis)も一緒で、家族は10月までコニストンに滞在しています。お父さんのアーネストはアルバストン(Ulverston)到着の予定を電報で知らせてきていますが、これはウォーカー中佐のやり方を彷彿とさせます。10月1日にはお母さんと三人の娘はテント・ロッジ(Tent Lodge)のミス・ホルト(Miss Holt)の所へお茶に行っています。
  3. 1928年4月21日:記念すべきこの年は、ロジャ(Roger)と1歳半になるブリジット(Brigit)も一緒ですが、決して天候に恵まれた夏ではなかったそうです(Alexander, C.E. (1996). Ransome at Home. p.46. Amazon Publications.)。翌年1月までの滞在中、5月にはコリンウッド夫人が病気で亡くなっています。
  4. 1932年8月27日:アレッポからの最後の訪問となるこの年、子供たちはすでに15歳、13歳、12歳、10歳、6歳になっています。コリンウッドはこの年の10月に亡くなっています。

 

贈り物とお返し

1928年のコニストン訪問の際、すでに病床にあった母の具合を案じたアーネストとドーラは子ども達をレインヘッドからすぐ下のバンク・グラウンド・ファームに移し、その世話をナースに託し英国内各地を訪れまた医学研究のためにウィーンへ出かけます。そして残された子ども達の養父ならぬ養叔父となったのは当時 Low Ludderburn に住んでいた「アーサーおじさん」そして妻の Evgenia だったのです。

不思議に思われますが、ランサム自身は「子どもは嫌いだ」と言っており、アルトゥニアン家の帰国に際しても「お別れを言いにLow Ludderburnへ来てくれるのはかまわないが、ガキをつれてくるのは勘弁してくれ」と言っていたそうです。

しかし、アレッポへの帰国を翌日にした1929年1月19日(土)、ランサムの家へやってきたアーネストの車にはティティとロジャの二人も一緒に乗っていました。車から降り、書斎になっていた納屋まで走っていった2人は赤い革のスリッパを片方づつ手にしていました。それは前日に45歳となったランサムへの誕生日プレゼントでした。(Brogan、Wardaleの著作ともこの出来事については詳細が異なっています。Mavis/Titty Altounyanは「ロジャと私が」とインタビューで言っていましたが、すでに伝説となっている出来事なのですから、スリッパを持っていったのが誰であっても良いことなのでしょう。)

それから一年半後、ランサムからのお返しは一冊の本となってアレッポのアルトゥニアン家に届くことになります。テーブルを囲んで届いた本を開くとそこには Swallows and Amazons の文字。

「ツバメとアマゾン」だって・・・アマゾンって南アメリカにある河でしょ・・・

ページを繰るとそこにあったのはジョン、スーザン、ティティ、ロジャの名前。

これ、私たちのことだわ・・・

そう、アルトゥニアン夫妻と4人の子ども達のために書かれた物語でした。

To the six for whom it was written in exchange for a pair of slippers
6人のために書いた物語を彼らに捧ぐ、スリッパのお返しに

ハーフタイトルの献辞(1958年以降の版からはこの献辞は削られているため日本版で読むことはできない)にはっきりと書かれているのですから。

 

ピンで留められたチョウチョ

彼らは「標本にされた」と思わないだろうか?ドーラからの礼状を読むかぎりランサムのこの心配は杞憂に終わったようです。その後のランサムとアルトゥニアン家(その子ども達)との交流は物語という共有の宝物をあいだに、以前にもまして親密になったように思われます。子ども達が書き送った感想や注文にそれは見て取れますし、子ども達には自分たちが書かれているのを自慢に思う気持ちがあったことでしょうし、ランサムにしてみれば、自分の贈り物が大成功だったという悪戯っぽい満足感があったかもしれません。いささか良い子に書かれすぎている点を差し引けば、「贈ったもの」はあるがままに受け取られ、「贈った者」と「贈られた者」との間に行き違いはなかったように思われます。

3年経って大きくなった自分たちをぜひ見に来てという子ども達からの願いに応え、1932年にはランサム夫妻はシリアのアレッポを訪問しています。この時、ランサムはドーラ・アルトゥニアンから£20で依頼されたディンギーを貨客船で一緒に運び、その船は子ども達により「ピーター・ダック」と命名されました。ランサムは子ども達と船で遊び、テニスをし、ティティは本の挿絵の手伝いをしています。しかし滞在中、アレッポという土地で英国人の子どもを育てること、その教育についてアルトゥニアンとランサムは口論をしています。問題はランサムの主張通り子ども達が英国の寄宿学校へ入学することで片は付くのですが、思えばこれはそののち二本の道が少しずつ離れていくその始まりだったのかも知れません。

翌年には三姉妹はウィンダミアの Annisgarth School へ入学し、週末にはランサムの車に拾われて遠くない Low Ludderburn の家まで泊まりに行くこともありました。スージーの思い出によれば、納屋を改造した書斎でランサムがくたびれ果てるまで物語の最新の章を読んでもらったとのこと(Wardale, Roger. (1991). Nancy Blackett. under sail with Arthur Ransome. p.87. Cape.)。でも、すでにタキは15歳、ティティは12歳になっていましたし、ランサムがツバメ号を売り払い湖水地方を後にする時はすぐそこに迫っていました。

 

私はツバメじゃない

ティティ(Mavis/Titty Altounyan)は本を読んだ時のことをこう回想しています。

私はこんな子じゃないのにとすぐ思いました。あんなに良い子、賢い子なんかじゃなかった。私はただの普通の子だったのです、ほんとうに。でも、私の名前でした。
My first feeling was that I was not really that person.  I was not anything like so good and clever and everything like that person.  I felt very inferior indeed.  But it was my name.
(interview with Mavis(Titty) Altounyan on the TV program ”An Awfully Big Adventure” BBC2, 14 February 1998)


ウィンダミアの学校で子ども達は級友から「あの子たちがツバメたち(Swallows)なんだ」と見られます。それはアレッポでは経験しなかった新たな現実であり、ごっこ遊びの延長で済ませられるような事柄ではありません。すでに自分の中にあった懸念、「私はあんな風じゃないのに」に子ども達は直面することになりました。タキは書いています『私はジョン船長みたいではなかったし、ナンシー言葉も使わなかった』と。他人が期待する自分、自分はこうだと信じる自分、その間の葛藤はこの状況に置かれた彼女たちでなければ理解できないことでしょう。なんと言っても物語の中のツバメ達はあまりにリアルなのですから。

どんな子どもだって物語の登場人物そのままなどということはあり得ませんし、いつまでも大人が望む「良い子」でいることなど出来ません。でも新しい物語の構想を求めてサフォークへ移ったランサムには、物語のために自分の理想とする「子どもたち」が必要でした。


悲しい別離

ランサムが湖水地方をあとにした頃からアルトゥニアン家との関係は少しずつ変化していったようです。ひょっとしたらあの「ツバメ号」をランサムが売り払ってしまったことも不幸ないさかいの原因の一つなのかも知れません。スージーは述べています。


残念でならないことですが、1936年あたりから私たちの道は二度と交わることはなかったのです。
(Wardale, Roger. (1991). Nancy Blackett. under sail with Arthur Ransome. p.87. Cape.)

以下は悲しい別離のお話です。

ランサムと Evgenia に子どもはありませんでしたし、先妻の子タビサ(Tabitha)は母アイヴィー(Ivy)の側についていて、父への態度は母のそれに大いに影響されていました。ランサムは「子どもは嫌い」と言っているようですが、ティティは述べています。

ランサムは私を養女に欲しがったのです。
彼が父にそのことを頼んできたとき、父が断ったのを知って私は嬉しく思いました。
気の毒に Evgenia とランサムはとても子どもを欲しがっていました。
(interview with Mavis(Titty) Altounyan on the TV program "An Awfully Big Adventure", BBC2, 14 February 1998.)

ランサムが好きだったのはある年齢までの子ども達。
子どもたちが子供の枠を越え、自分でものを考え始めると、ランサムはそれが受け入れられなかったのでしょう。
私たち家族とランサムとの間に起こったことはこれだと私は思います。
(interview with Mavis(Titty) Altounyan on the TV program "An Awfully Big Adventure", BBC2, 14 February 1998.)

やがて1958年には、ランサムはあの『6人に捧ぐ・・・』の献辞を本から削り、それを「物語はコニストンで過ごした少年時代の思い出からひとりでに生まれてきた」旨の著者ノートに置き換えます。

再びティティの言葉。

私たちの名前を使ったことをランサムが大変悔やんでいたのは確かです。
彼があの献辞を本から削ったのは、一度は私たちに捧げたのですから随分とアンフェアなやり方だったと思います。
でも、それで彼の気持ちのほどが良く分かりました。
彼は私たちにうんざりしていたのです。
(interview with Mavis(Titty) Altounyan on the TV program "An Awfully Big Adventure", BBC2, 14 February 1998.)


読者からの手紙の中にはのちに「The Far Distant Oxus」となって出版される本(これのランサムの序文は受け取った手紙の分類がされていて、とても興味深い)の「原稿を読んでみてくれませんか」というランサムを感激させるものもありましたが、中にはウォーカー家の6人には実在のモデルがいると早合点して「彼らに是非会いたい」「彼らをうちへ招待したい」などというランサムをイライラさせる手紙をよこす読者もありました。また「Swallows and Amazons」のテレビシリーズ製作の際には、アルトゥニアン家が注目を浴びそのインタビューが放映されましたが、しかしこうした出来事は「麦わらの最後の一本」だったのでしょう。 タキは書いています。

父アーネストとランサムの間にあったものは複雑に絡み合い、そのあるものは決してほぐれることはなかった。
(Altounyan, Taqui. (1990). Chimes from a Wooden Bell. p.116. Tauris)

 

晩年に書かれた自伝のページを繰って、いささか失望した読者も多いのではないでしょうか。アルトゥニアンの名前はわずか二カ所、レインヘッドに来ていた若者として、もう一カ所はシリアへ潰瘍の治療に行った先の医師として登場するにすぎませんし、4人の子ども達への言及はたった一カ所、名前すら書かれていません。自伝にはこうあります、

医師アルトゥニアンの子ども達は、私の創造になる登場人物が自分たちのことだと思っていて(性別はともかく)、実際の自分たちを見に来るようにと手紙で言ってきていた。

「ツバメ号とアマゾン号」の構想をランサムはこう記しています。

ある架空の一家の子どもたち、2ハイの船。
私が生み出した4人の子どもたちが別の子どもたちとコニストンで出会う・・・
(Ransome, Arthur. (1976). The Autobiography of Arthur Ransome. p.331. Cape.) 

架空の子ども達-imaginary children-想像上の彼らはランサムにとって理想の子供でもありました。物語の中でいつまでも変わらず、成長もせず。