ピーター・ダック

書かれなかった続編は3作目として世に出ました
Nancy began to wish she was back at home.

Ransome, Arthur. Peter Duck. p.101 (Cape, 1932)

 


この「湖もの」とは一味違った「カリブ海宝捜し大航海物語」が書かれたのは1932年、ランサム夫妻がシリア、アレッポのアルトゥニアン家に滞在していた間のことで、ランサムは「2月4日に書き始めた」と母への手紙で報告しています。

アレッポ:アーネスト・アルトゥニアン(Ernest Altounyan)がそこで父の病院を継いでいた、このシリア第二の都市を『アレッポ石鹸』で知っていると言う方もいらっしゃるでしょう。かつてはイスラム教徒とキリスト教徒が互いを尊重し合いながら共存していた(Altounyan, Taqui, In Aleppo Once.. Murray, 1969)というこの都市ですが、シリア政府軍と反政府軍との激戦地の一つですし、911の実行犯の一人の出身地でもありました。

 

アレッポ(Allepo)への旅

アルトゥニアン家の長女タキは1931年11月15日付の手紙のなかで「ツバメの谷」への感想を書くと同時に、「アレッポへ来て『Swallows in Syria』を書いてくれるまで、もう手紙を書かない」とランサムを脅かしています。それでランサムは1932年1月8日に「Scottish Prince号」でマンチェスターからシリアまで長い船旅の途に着くのですが、このとき彼はドーラ・アルトゥニアンに£20で依頼された10フィートのディンギー(子ども達によって「Peter Duck」と命名されました)を携えていました。

自伝ではこの旅行の第一の目的は医師アルトゥニアンから勧められた胃潰瘍の治療のためとされており、彼の子どもたちについての言及はごく僅かです。しかしタキの手紙からも読みとれるように、この頃ランサムとアルトゥニアン家との間にあった「愛情(affection)」はその絶頂にあったはずで、ランサムの自伝に見られる実にそっけない調子は驚くばかりです。自伝にはこうあります。

医師アルトゥニアンの子ども達は、私の創造になる登場人物が自分たちのことだと思っていて(性別はともかく)、実際の自分たちを見に来るようにと手紙で言ってきていた。

ともかく、アレッポでのランサムの生活は第3作の執筆に費やされていました。

 

今日は何枚書いたの? 

食事に部屋からおりてくるランサムに子供たちが「今日は何枚書いたの?」と尋ねると、ランサムはだまって指を立てて物語の進み具合を教えたそうです。またこの作品からランサムは自分で挿絵を描くようになりましたが、それを「ティティが一生懸命手伝ってくれた」と友人テッド・スコット(Ted Scott)への手紙に書いています。4月半ばには310頁の草稿を抱えてランサム夫妻は帰国しましたが、まだあと100頁は残されたままでした。彼らの出立はかなり突然のことだったようで、その理由は一つには現地で夫人がかかったマラリヤそして病気への懸念、もう一つは子ども達の教育環境をめぐってのアーネストとの衝突だったようです。アーサーおじさんがどうしてそんなに急に帰ってしまったのか子ども達には見当も付かなかったのか、タキは「ナンシー言葉で」不満を述べ、ティティはもっとおだやかに「そんなに急いで早く帰らなくても、もう一ヶ月いればよかったのに」書いています。


You know I really think you need not have gone so soon and in such a hurry like that. You could have easily stayed another month, getting on with Peter Duck., which is getting - or was getting - on so nicely. (Altounyan, Taqui, Chimes from a Wooden Bell. p.113. Tauris, 1990) 
 

希望

「ピーター・ダック」の出版は1932年10月12日でした。そしてその数日後出版社 Cape のパートナー、ハワード(Wren Howard)からの手紙はすでに2刷が出たことを告げています。1932年の終わりまでに「ピーター・ダック」は4刷、さらに1、2作目とも3刷に達し、銀行預金が底をつきつつあり「破産の危機」にあるとまで言っていたランサムは、もう一冊書く経済的余裕が出来たことを知るのです。


ピーター・ダック登場

「ピーター・ダック」という名前は2作目「ツバメの谷」の冒頭付近で突然登場します。フリント船長がティティに再会したとき「ピーター・ダック」の消息を聞く場面があるのですが、そのいささか唐突な登場に戸惑ってしまいます。そのあと去年の冬にノーフォークで、船に乗っているときに子供たちが作ったお話の中に登場するのが「ピーター・ダック」という説明が出てきます。

ナンシーとペギーそしてフリント船長と一緒にウェリー(Wherry)のキャビンで過ごしたあの冬の夜、その間に子ども達が創ったお話の中で最高の登場人物はピーター・ダックでした。彼は子ども達と一緒にカリブ海へ船出して、海賊の財宝でポケットをいっぱいにしてロウストフトへ帰ってくるのでした。(Ransome, Arthur, Swallowdale. p.64 (Cape, 1931) 
 

この3作目を読んで初めて「ピーター・ダック」とはこの人のことで、一緒にカリブ海へ行ったのかと納得するのですが、それでも少しとまどいが残ります。3作目「ピータ・ダック」は出版された順番こそ「ツバメの谷」のあとですが、物語の設定はその前の冬、「ツバメ号とアマゾン号」の夏休みのあとと考えられます。しかしこのノーフォークの冬に子供たちが物語を創作するという続編をランサムは完成させることはありませんでした。

 

子ども達が創ったお話


この「ピーター・ダック」を初めとする何冊かは『子ども達が創ったお話』(fictional fiction, by Wardale, R. あるいは realistic fantasy, by Christina Hardyment)で、その他の『事実を述べた物語(fictional fact、同 あるいは fantasical reality, 同)』とは異なる扱いをすべきなのでしょう。はっきり「Based on information supplied by the Swallows and Amazons」と書いてありますし、それは確かに「子ども達の手になる物語(Their Own Story)」なわけです。

ちなみにこの作品はブラケット夫人(アマゾンたちのお母さん)とウォーカー夫人(ツバメたちのお母さん)に捧げられています。二人をこの冒険に連れていかなかった(あるいは登場させなかった)恩知らずな子どもたちを詫びて。