むかし北部の湖で

北部の湖、物語始まりの場所でのできごと
本当にあったことなの?("Is it real?")

事実と物語

ランサムが紡ぎ出したお話の最初の「聞き手」は、ウィンダミアで谷一つ隔てて住んでいた友人、ケルザール大佐(Colonel Kelsall)の二人の息子ディック(Dick)とデズモンド(Desmond)だったこともあります。Low Ludderburnの家の書斎で、二人はランサムが読んで聞かせるお話に耳を傾け、「それで?それで?」と続きを催促したことでしょう。ディックとデズモンドの二人は(灰色の)オウムを飼っていましたし、2作目「ツバメの谷」にでてくる「船員雇用契約書(Ship's Paper)」を実際に書いたのは彼らです。また二人はランサムが本の挿絵を描くためのポーズもとっています。

物語の背後にはこうした様々な事実が知られています。ウォーカー家の子どもたちの一人一人はその年齢から性格の細部まで、アルトゥニアン家の四人の子どもたちに良く似ていると言われます。「ツバメ号とアマゾン号」の出版前の一冊を贈呈されたアーネスト・アルトゥニアンは、自分の子どもたちの特徴が正確に描写されていることに感嘆しています。

ですから「『ツバメ号とアマゾン号』探索の旅」にでるのはそれは楽しいことに違いありません。物語を読んだあとでそのような背景を知ることは意義がありますし、そのおかげでティティやナンシーをより親密に感じるかも知れません。それになにより、コニストン湖周辺に散らばっている半分現実の場所を「あれはあそこか」と同定したい願望を抑えるのはなかなか難しいことです。
 

コニストンの古い地図;まだFurness Railway Coniston Branchが載っている。Peel島、Bank Groundの名前も見える)

でもコニストン湖を訪れて、「海賊旗を揚げたディンギーを初めて見たのはここか」と思ってその場に佇むのは、いささか「分別のない行為」と言えるかもしれません。そんな瞬間、事実と物語との区別がつかなくなっている自分に気づいて、ちょっと照れながら我に返るのです。

舞台となった「北部の湖」をランサムは1958年の改訂(著者ノートを追加)まで秘してきました。その湖が湖水地方にあることはわかりますし、大きな島が横たわっているのはその地方で最大のウィンダミア湖(Lake Windermere)そのものです(神宮輝夫版訳者あとがきには「舞台はウィンダミア湖」と書いてありますけれど)。

ランサムは9歳のときにはウィンダミア湖畔のボウネスの学校へ通っていました。1895年(11歳)の「大寒波」の年、ウィンダミア湖が凍結したときの思い出は後に第4作「長い冬休み」の中で甦っています。また、1925年にはバルチック海沿岸のラトビアから帰国して、ウィンダミアから9kmほどの不便な場所Low Ludderburnに二度目の妻エフゲニア(Evgenia)と新居を構えています。1935年まで続くウィンダミア湖での「ツバメ号」と「コキー号」での帆走の思い出、そして湖の中の島でのピクニックやキャンプの思い出は、物語のなかに生き生きと反映されているに違いありません。

しかし、ランサムが自分の大切な場所として長く人に明かさなかったのは、ウィンダミア湖の西にある静かな湖、コニストン湖(Coniston Water)です。Leeds大学の歴史の先生をしていた父親に連れられて、ランサムは子どものころ湖の南端にある農場で夏の三ヶ月を過ごしていました。ここで知己を得たコリンウッド家と親しく付き合うようになったランサムは、1928年(44歳)に、この湖でコリンウッドの娘ドーラの四人の子どもたちに帆走を教え、キャンプをし、そして彼の意識の下ではまだ文字にならない物語が紡がれはじめたのです。

架空の「北部の湖(the Lake in the North)」はコニストン湖とウィンダミア湖との合体で、それぞれの地理上の特徴は生かされているものの、ある場所は移動され、川の流れは逆にされるなどしてランサムの心の中で自由に姿を変えていきました。

コニストン湖には島が二つありますが、はっきりと陸地から離れてそれとわかるのは「ピール島(Peel Island)」だけです。ランサムが子ども時代を過ごした湖尻からは、小さな島が見えて、ボートを漕いでいけるところにあるこの島は絶好のピクニックの場所でした。南北に細長く、南側は幾筋かの岩が水に落ち込んでいるこの島で、ランサムは1896年(12歳)に偶然地元のコリンウッド家の人々と会い、一緒にピクニックをしました。北側から見ると木々が生い茂ってコロンとした丸い島に見えますが、東西方向から見ると南へ向かってなだらかに傾斜している細長い島だと言うことがわかります。その姿はランサムのイラストそのままで、それを「母船とお供のディンギー」に見立てたのはコリンウッド(W.G.Collingwood)でした。

コリンウッドの著作"The Lake Counties"は1902年の初版から30年を経て改訂されていますが、その改訂版の第一部 Their Scenery and Story の第三章 Lake Lancashire は Coniston Water について述べています。もちろん Peel Island についての記述もありますし、かつてそこでコリンウッド自身が発見した北方人の住居跡についても述べられ、そして次のような一節を見つけることができます(W.G. Collingwood.(1932). Illustrated by A. Reginald Smith. The Lake Counties. Warne. p.61.)(ピール島を描いた下のイラストは1902年版からのものです)。

In May the island is a mass of bluebells ; later in the summer bell-heather and fern blend their colours ; in autumn the varied foliage is singularly rich against the background of distant blue. Many readers of the recent books by Mr. Arthur Ransome, "Swallows and Amazons" and "Swallowdale," will no doubt recognise this place, altered a little by the usual literary camouflage, but with all its charm preserved.

人々

コニストンで知り合ったコリンウッド(W.G. Collingwood)をランサムは父のように慕い(彼の父は1897年に亡くなっています)、コリンウッドもランサムの作家になりたいという希望を理解し励ましてくれます。そして同年代のコリンウッドの子どもたちは友人となり、帆走を教えてくれ、ランサムは彼の娘バーバラ(Barbara)に求婚すらするのです。娘の一人、ドーラ・コリンウッド(Dora Collingwood)は弟のラグビー校での友人アーネスト・アルトゥニアン(Earnest Altounyan)と結婚しシリアのアレッポに住んでいましたが、1928年には四人の(生後1年半のブリジットをいれれば五人)子どもたちを連れてコニストンで長い休暇をすごしていました。

同じころコニストンではもう一組の家族が家を借りていました。スミス家にはディンギーを操る眼鏡をかけた少年と二人の姉妹がいて、半ズボンをはいた少女は「ヤマネコ」のふりをするのがお気に入りでした。

屋敷

ランサムの父が夏の休暇に借りていたのは、コニストン湖の南端にあるスワンソン農場(Swaison Farm)でした。湖の北端近く東斜面には、レインヘッド(Lanehead)という名の屋敷があり、ここはコリンウッドがホルト家から借りていたものでした。その北側にはホルト家の屋敷テント・ロッジ(Tent Lodge)があり、ここはアマゾン達の住まいベックフットにその外観がとても良く似ています。そして南側にはバンク・グランウンド・ファーム(Bank Ground Farm/Cottage)が建っていて、アルトゥニアン家の人々が休暇を過ごしていたのはこの農場です。またその一部はコテッジとしてスミス家が借りていました。さらに南へ行くとラスキン(John Ruskin)の住まいであったブラントウッド(Brantwood)があり、そのさらに南の森の中にランサムが1940年から住んだ家(The Heald)が建っていました。こうした屋敷、農場の多くは湖まで続く緩やかな斜面に建っていて、湖畔には専用の桟橋があり手漕ぎボートやディンギーがもやわれていました。

スリッパのお返し

1928年4月の終わりにはアルトゥニアン家は子どもたちを連れてコニストンに来ていましたが、それは母親(E.M.Collingwood)の病気見舞いのためでもありました。残念ながら彼女は5月24日に亡くなったのですが、彼らは翌年の冬までここに滞在します。この時ウィンダミアのLow Ludderburnに住んでいたランサムは、帆走好きだったアルトゥニアンと共同で二ハイのディンギーを購入し、四人の子どもたちに帆走を教えることになります。子どもたちは「ツバメ号(Swallow)」と「メイヴィス号(Mavis)」と名付けられたディンギーを操って、夏から秋にかけて「アーサーおじさん(Ukartha)」と忘れえぬ時を過ごしたのです。

それはランサム自身がかつて経験した自由で冒険に満ちた夏の休暇の再現であったのでしょう。離婚した最初の妻アイヴィー(Ivy)との間に生まれたタビサ(Tabitha)を除けば、子どもを持つことのなかったランサムにとって、アルトゥニアン家の子どもたちは自分の経験を教え、さまざまな楽しみへ誘なおうとする対象であったのかも知れません。

年が変わり、アルトゥニアン家がシリアへ帰る時が近づいていました。1929年1月18日に45歳の誕生日を迎えたランサムは Low Ludderburn の家の書斎で仕事をしていましたが、1月19日、タキとティティ(あるいはスージーとティティ、あるいはティティとロジャ)(interview with Mavis(Titty) Altounyan on the TV program "An Awfully Big Adventure", BBC2, 14 February 1998)の突然の訪問に驚き、感激するのです。なぜって、ランサムが予想もしていなかったことですが、二人はシリアから持ってきた革の赤いスリッパを誕生日のプレゼントとして携えていたからです。

そして20日(日曜日)、ランサムは子どもたちの出立をコニストン駅で見送ったのです(Brogan, Hugh. (1997) Signalling from Mars. Cape. p.161.)。冬も終わりに近づいた3月になって帆走を再開した彼は、ウィンダミア湖で「ツバメ号」に乗っている間に(二ハイのディンギーのうち「ツバメ号」は購入時の約束で彼が所有することになっていました)、その後の作家としての人生を方向づける作品の構想を思いつきます。それは、帆船と子どもたちが主人公の物語になるはずでした。

物語は物語

このようにサーガにはランサムがコニストンとウィンダミアで過ごした子ども時代の思い出と、そしてアルトゥニアン家の子どもたちと共に楽しんだ思い出が詰め込まれています。ですから「あの場所はここか」と同定できる場所もたくさんありますし、「あの登場人物のモデルは私だ」と主張することも可能でしょう。しかし、実際の屋敷や農場のたたずまい、ピール島の岩場の奥にある「港」の様子、一パイ一パイのディンギーの帆走性能、兄弟姉妹の性格や役割、湖畔で遊んでいた少女のこと、などなど、ランサムの心の中にしまわれていったカードの一枚一枚は、シャッフルされ、融けあって物語へと姿を変えていきました。

それはたんなる子ども時代の回想にとどまらず、自身の経験を下敷きにした架空の湖や人物からなるフィクションであり、そしてなにより重要なことと思えますが、読者としての子どもたちのために書かれています。物語を読んで、子どもたちの「冒険心」が刺激されるように、楽しい休暇がいっそう楽しくなるように、サーガを読むとそんなランサムの思いが伝わってくるようです。お話の草稿を読んでもらい、夢中になって耳を傾けているディックとデズモンドの様子、そして最初の一冊を贈られたアルトゥニアン家の子どもたちからの感謝の手紙は、どれほどランサムの励みとなり喜びとなったことでしょう。


「4人のツバメたちと2人のアマゾン海賊」そして「湖」。「本当にあったことなの?("Is it real?")」という問いに答えるのは実に難しいことです。あの「北部の湖」はどこかと問えば、それはあくまでランサムの心の中で生まれ、そして物語を読む私たちの心の中で再構成されるもののはずです。それでも、コニストン湖を訪れピール島を目にするたびに思わずにはいられないのです。「架空の湖があって、そこには架空の島があって、でもそれはここコニストン湖で、このピール島で」と。